夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
百人一首の42番。清少納言の曾祖父である清原深養父が書いたこの歌。
夏の夜、まだ宵の時分(19時~21時)だと思っていたが、もう明けてしまった。月はどの雲に宿をとっているのだろう(どの雲に隠れているのだろう)。という意味だ。
おそらく彼がこの句を詠んだ時は21時頃から夜が明けるまで、ずっと月を眺めていたのだろう。
私も今、同じように寝むれない夜を過ごしている。その理由はただ一つ。
───彼女がアイドルをやめてしまった。
私は夏が嫌いだ。
地球温暖化のせいなのか、ヒートアイランド現象なのかは知らないが年々最高気温を更新し続ける都心の夏が大嫌いだ。
暑いのは嫌いだった。だが、熱いのは好きになれた。
今まで彼女を推してきたおかげでアイドルの素晴らしさを知る事が出来た。ライブの熱さを好きになる事が出来た。
だが、やはり夏は私にとって良い季節ではなかった。彼女との別れの季節となってしまったからだ。
アイドルである彼女を最後に見たのは皮肉なことに始めて彼女を知ったあの公園での野外ライブだった。
その日の私は早めに仕事を済ませ、早足で公園へと向かっていた。
走ってはいないが、急いではいる。ライブの時間に間に合うかどうかといった微妙な時間であったからだ。自然と額からは汗が零れてくる。
年々衰えるこの身体。少しの運動でもすぐに息が上がってしまう。
「はぁ……はぁ……もうすぐでライブが始まる。急がなければ……」
そう小さく一人事を呟きながら、公園へ向かう足を早めると、目と鼻の先にいつもの公園が見えてくる。公園の時計が示す時刻は16時50分。日は落ちていない。まだ昼なのかと錯覚するほどの明るさだ。
「とりあえず間に合いそうだな」
ライブの開始時間は17時。なんとか間に合った。
ライブ会場に着いた私は、足元にカバンを置き、そのカバンの中からペンライトを取り出した。……のだが、またそのペンライトをカバンへとしまい込む。
「野外ライブだし、ペンライトは要らないな」
まだ外は明るいし、ペンライトを光らせてもうまく輝かない。おそらく彼女にもペンライトの光は届かない。電池が無駄になるだけだ。今週末にはライブハウスでの対バンライブがある。その時にペンライトを使えばいいだろうと、この時の私はそう思っていた。
まさか、夏の野外ライブのペンライトと同じように彼女自身も輝かなくなってしまうとは……彼女に私の『アイドルとして輝き続けていて欲しい』という願いが届かないとは……私の彼女への応援が無駄になってしまうとは……今週末のライブは勿論、今後のライブにも彼女が出演しなくなってしまうとは……この時の私は思ってもみなかった。
この日の私は……というより彼女の笑顔が消えたあの春が過ぎてからの私は彼女がモデルに気持ちが傾いて、アイドル活動への本気度が薄れているのではないかという不信感を隠すためにライブや特典会を楽しんでいた。
そして、彼女がいつか再びアイドルとしての輝きを取り戻してくれると、彼女が再び本当の笑顔でライブを行ってくれると信じてライブや特典会をより一層楽しむようになっていた。
しかし、その野外ライブの翌日。彼女のSNSの更新が止まってしまう。
アイドル事務所のSNSから当分彼女がライブを休むという連絡と、彼女からも『しばらくライブとSNSをお休みさせて頂きます』と一報を受けたのみでそこから彼女のいない空白の期間が訪れた。
SNSには様々な憶測が飛び交う。『他のメンバーと揉めている』(元々不仲説はあった)『ファンからストーカーなどの迷惑行為を受けて精神的にダメージを負った』『SNSに彼女への誹謗中傷が書かれており、それを目にして精神的ダメージを負った』『前のライブよ特典会でファンに心ない言葉をかけられて精神的にダメージを負った』(どれもあり得る話だ。初めて特典会に行った時に私の前に居たメガネの青年は危ういところが良くあった。他にも何かしらやらかしそうなファンは何人か心当たりがある。何度もライブや特典会に行っていると話した事はなくても、いつも見る面子は大体覚えるものだ)
他にも『他のアイドル事務所に転生(移籍)しようとしている』『重い病気を患った』『重い病院を元から患っていたが、それが隠しきれなくなった』『酷い怪我をして入院した』『彼氏が出来た』『元々彼氏が居てそれが運営にバレた』『テレビの取材などの何か大きな仕事が入った』『モデルの仕事が今まで以上に忙しくなった』『ただ疲れただけ』などなど……本当に色々な憶測がSNSで流れてきた。嘘か誠かは関係ない。各々が言いたい事、思った事をそのまま書き連ねていくだけ。SNSとはそういうものだ。本当に腹立たしい。
彼女のSNSが更新されない間、私はそんな憶測の数々に苛立ちを覚えながらも、彼女がアイドルとして帰ってきてくれる事を信じて待った。ただひたすらに彼女のいない生活を耐えた。待つしかなかった。耐えるしかなかった。信じるしかなかった。
そして、10日が経った頃、再び彼女のSNSが動いた。その内容は……
『モデル業に専念すべく、アイドル活動を辞退する』というものだった。
最初は悪夢だと思った。夢なら早く醒めてくれと願ったが、何も変わらない。残念な事に夢ではなく現実らしい……
受け入れたくはないが、まずはその発表を目に焼き付ける。
彼女からのコメントは、「突然の発表となり、申し訳ございません。約3年間、アイドルとして活動する事が出来たのはファンの皆様の応援の賜物だと思っております。本当にありがとうございました。とても楽しかったです。今後はモデル業に専念していく所存ですので、変わらず応援して頂けると幸いです。卒業イベント等は予定しておりません。申し訳ございません。その代わりといってはなんですが、このポストのリプにお返事を書かせて頂きます。最後に皆様一人一人に感謝の言葉を送りたいです。よろしくお願いします」という内容だった。
そして、アイドル事務所からも彼女のポストの引用リポストという形で次のような報告が上がる。
◯◯◯◯本人から発表がありました通り …… としてのアイドル活動を本日を持ちまして辞退する運びとなりました。復帰を心待ちにしていた皆様には残念な報告となってしまい申し訳ございません。卒業イベントの予定はございませんが本人から感謝の気持ちを伝えたいとの事でリプ返をさせて頂きます。引用元の彼女のポストにリプをお願いします。本日23時迄の受付とします。
早くリプをしなければ……
そう思ったが何を書いたら良いのか?何を伝えれば良いのか?何も言葉が出てこない。
脱力感が全身を支配し、携帯に文字を打ち込む指の力すらもはや残っていない。所謂、放心状態であった。
結局、何も書けないまま最後のリプ返企画は打ち切られてしまった。
リプ返企画が打ち切られた後も、携帯を見たままの体勢で何時間も動けずにいた。
何時間経ったのかも分からないが、何とか動けるようにはなった。しかし、まだ何も言葉が出てこない。いつか卒業するかもしれないという覚悟は彼女の笑顔が消えたあの春からしていたはずなのだが、いざ彼女から発表があると、悲しいし辛い。卒業したら出るだろうと思っていた涙も一滴も流れなかった。
何か卒業イベントなどがあれば気持ちの切り替えも出来たのかもしれないが…………いや、もし卒業イベントがあったとしてもおそらく私は何も変わらないだろう。今回と同じように大きなショックを受けているはずだ。
その日の夜は寝る事も何も考える事も出来ず、ただ月を眺めていた。
夏の夜の 月輝くが 我暗く 彼女の輝き 永遠へと消える
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