奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
百人一首の5番。猿丸太夫が書いたこの歌。
人里離れた奥山で紅葉を踏みわけながら、雌鹿がいなくて恋しいと鳴いている雄鹿の声を聞いている時、秋は悲しいものだと感じられる。といった意味である。
まさに彼女を失った私の事を詠んでいるような句だ。
彼女がアイドルをやめてから数週間が経った。しかし私は未だに立ち直れていなかった。
仕事も手に付かず、上司や取引先の客にも怒られてばかり……
何か他に没頭出来る趣味でもあれば良かったのだが、私にはそのようなものはない。一応、学生時代に競技かるたをやってはいたが、今さらやる気にはなれなかった。
もう彼女に会えないという訳ではない。モデルとしての仕事は続けるとSNSの発表には書いてあった為、写真集のサイン会などで会えるタイミングはあるのだろう。
それを糧として、元々私と同じように彼女を推していたファンの皆は再び前を向いているようだった。
だが、私はそうではなかった。私は彼女がモデルの仕事を優先してアイドルをやめた事が辛いのだ。アイドルよりもモデルを選んだ彼女の選択に怒りすら覚える。
確かにモデルとしての彼女にはまた会う機会があるのかもしれないが、私はアイドルとしての彼女が好きだった。モデルとしての彼女に会ったところで……正直に言うと、意味がない。
しかし、これは彼女の人生。私がどうこう言える立場ではない。
辛い。苦しい。怒りを覚える。だがそれらの感情を発散する術はなく、ただ自分の悪しき感情を心の内に留めるしかなかった。
やはりアイドルで受けたメンタルダメージはアイドルで癒す他ないのだろう。
そう感じて元々、彼女の居たアイドルグループの野外ライブへ行ってみたのだが、それが……さらに私を追い込むきっかけとなってしまった。
重い足をなんとか動かしていつもの公園に辿り着く。またもや皮肉な事に今日のライブも私が彼女と初めて出会い、そして最後のライブの場となったあの公園での野外ライブであった。
私がライブ会場へ辿り着くと、もうすでにライブは始まっていた。私は出来るだけ後ろの方でライブを見る事にした。出来るだけメンバーに見つからないように……出来るだけ見知ったファンに見つからないように……
今までは楽しんで聞いていた曲がライブで流れている。しかし、今は全く楽しくない。彼女がいないからだ。
メンバーが4人になった事でライブでの立ち位置──所謂、フォーメーションも変わっており、まるで最初から4人グループであったかのように錯覚する。
次に流れた曲は知らない新曲だった。私とは正反対にライブを楽しんでいるファンの姿を後ろの方から眺めていると、顔の知らないファンも大勢いる。見知ったファンも知らないファンと仲良くなっているようだ。この数週間で色々な事が変わったらしい。
まるで地蔵にでもなったかのように固まったまま、彼女のいなくなったグループのライブを見終わり、その場で特典会の様子も眺めていた。
特典会では皆、笑顔だ。私が始めてアイドルのライブを見た時と何一つ変わっていない。この空間は『楽しい』という感情で溢れている。
しかし、私はやはり『楽しい』と感じる事は出来なかった。
フォーメーションも変わり、特典会でも皆が笑顔で楽しんでいる。まるで彼女が最初からこのグループに居なかったかのようだ。
彼女を忘れて楽しんでいるファンやメンバー。彼女を知らずに4人グループになってからグループを推し始めたファンも中にはいる事だろう。そんな彼ら彼女らが許せない。そう感じてしまった。
アイドルを知り、奥へ奥へと入りこんだこの沼の底……秋の奥山で紅葉を踏みわけるように進んできたこの空間にはもう……『嫌悪感』しか残っていなかった。
そんな『嫌悪感』を覚える私自身に対してすら嫌悪感を抱いていた。
もう……限界だった。いや、もうすでに限界を超えていたのかも知れない……
私はその場から逃げるように走る。あんなに重かった足も逃げ出す時は羽のように軽い。その軽さに驚くほどだ。
不思議と軽いその足で私は走る。逃げる。ただ走る。走って逃げて、走って走って走って走って走って……
辿り着いた先はとある山の中だった。あんなに走ったのに息切れ一つない。疲れもない。私はもう何も感じなくなっていた。それほどまでに精神が疲弊していた。心が擦り切れる一歩手前であった。……否、もう擦り切れていた。……心を失っていた。
…………辿り着いたこの山の奥には確か、とても有名な自殺の名所があったはずだ。
山の奥の方へと進んでいくと、川があった。その川に沿って歩いていくと見えるのは大きな滝……この滝の上から身を投げ出せばただではすまないだろう。
もうアイドルとしての彼女はいない。仕事もうまくいかない。私を気にやむ者はどこにもいない。ならばもう……生きてる意味も、もはやない。
そう感じた私にもう迷いはなかった……
奥山に 紅葉踏みわけ 逝く先は 何も聞こえぬ 闇の底かな
後に彼の死体が発見された。彼は両親を幼い頃に失くしており、祖父母ももう他界している。兄弟姉妹もおらず、彼は独り身であった。親戚とも連絡がつかず、友人もいない。彼の葬儀は行われなかった。彼がアイドルのライブで良く話していた青年は彼が死んだ事にすら気付かず、いずれ彼が居たという事すら青年の記憶から消えていく事だろう……
彼の遺体が発見された日が、彼と彼女が初めて出会った日だという事を知っている者は、もはやこの世界の何処にもいない……
これは一種のアイドルの形、一種のアイドルファンの形にすぎない。アイドルの数だけアイドルの形があり、ファンの数だけアイドルへの推し方がある。
アイドルに限った話ではない。この小説をここまで読んでくれた君に、もしも推している誰かがいるのならば、後悔だけはしないようにして欲しい。もしもその推しとの別れが来たとしても、その時に『推してて良かった』『出会えて良かった』とそう思えるように……推し事をしているすべての人の幸福を俺は願っている……
この小説は俺の偶像への願いを込めた……駄作である。
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