片山によると、ここは蒲田駅に程近い場所らしかった。土地勘のない直樹には見当もつかない。多摩川が近いのだろうかとぼんやりと思う程度だ。
そんなことを思いながら、直樹は片山が指差したビルを見上げる。かなり古いと思えるビルだった。少なくとも昭和四十年代以前に建てられたものなのだろう。
「ここの四階にいる可能性が高いらしいです」
片山の言葉に直樹は軽く頷いた。
車から降りたのは直樹を含めて三人だけだった。直樹、片山、武の三人だ。
後ろをついてきたレクサスからは、人が降りてくる気配がなかった。アルファードの運転手も含めて、彼らはここで待機ということのようだ。
裏を返せば、組の人間は極力関わらせない方がいいという片山の判断なのだろうと直樹は感じる。
だが、蒲田・川崎狂走会を裏切った人間が、こんなすぐに見つかるような場所に若菜と潜伏しているのだろうか。直樹にはそんな懐疑的な思いがあった。
武の説明では、裏切った豊はまだ自分が裏切ったことを知られていないと思っている。ならば、今は狂走会の仲間が寄り付かない場所ということで、何の疑いもなく昔の溜まり場を使っているはずだとのことだった。
「相手はガキが一人。私たちだけで大丈夫ですよ」
そんな片山の言葉に武が唇の端を歪めた。
「随分と余裕だな。豊は度胸はねえが、頭だけはイカれている。追い込まれりゃすぐにナイフを持ち出す奴だ」
「度胸のない奴が刃物を出したところでどうなる?」
片山が武の言葉に鼻で笑った。
「ちっ、好きにしろ。俺は一応、言っておいただけだ」
武は不貞腐れたような顔で、あらぬ方向を向いた。
「片山さん、穏便にいきましょう。別に悪気があるわけじゃない」
直樹の言葉に片山が肩をすくめる。
「少し大人げなかったかもしれませんね。では行きましょうか。先頭は私が」
片山はそう言って歩き出したのだった。
ビルの中は薄暗くて、明らかに空気も淀んでいた。外見もそうだったが、ビルの中もかなりくたびれている。テナントビルのようだが、実際にテナントとして入っているところは今もあるのだろうか。そんな疑問が生まれるほどのビルだった。
人気のないビル内で直樹がそう考えていると、エレベーターが一階に着いたことを告げる間抜けな音がした。
大げさな金属音を立ててエレベーターの扉が開く。
「このビルにはダミー会社しか入っていない。だから人と会うことなんて滅多にない」
武はそう言うと、先頭を切ってエレベーターに乗り込んだ。直樹と片山もそれに無言で続く。
扉を閉じたエレベーターは、小刻みな振動を起こしながら上昇していく。エレベーターの中で片山が思い出したように懐に手を入れた。
「直樹さん、念のためにこいつを」
片山が懐から出してきたのは小ぶりのドスだった。ドスなどというものは正直、テレビや映画でしか見たことがない。思わずごくりと自分の喉が鳴るのを感じる。
「これで誰かを刺せと言ってるわけじゃないですよ。空手の型を見せるより、刃物を見せた方が牽制になる時もあります」
片山が言っていることも分からなくはなかった。もっとも、そんな状況が自分に起こればの話なのだったが。
直樹は素直に頷いてドスを受け取った。その手が少しだけ震えたかもしれない。
刃物には、基本的に生理的嫌悪感が直樹にはあった。加えてドスともなれば、人を傷つけるためだけの道具なのだ。そういった物を手にしたのは直樹も初めてだった。
直樹は静かに溜息をついた。つい数週間前までは出自はともかくとしても、こんなドスなんかとは無縁な普通の会社員だったのだ。直樹としてはどうしても微妙な気持ちにもなってくる。
出生の背景が少し複雑なだけで、普通に生きてきたはずだった。それが今ではドスを懐に入れて、ほとんど廃ビルのような建物にいるのだ。
エレベーターが四階で止まり、派手な振動が足元を揺らした。エレベーターを降りると、一階に比べて周囲はさらに薄暗くなっている。壁にはいたるところにひびが走っていて、しかも空気は少しだけかび臭い。
武が顎で示した先には、薄汚れた大きな丸い取っ手がついた両開きの扉がある。扉の向こうではかすかに人の動く気配があった。
やはりここに若菜は捕らえられているのか。直樹の胸が高鳴る。
十数秒の間、扉の前で直樹たちは身構えていたが中の人物がこちらに気がついた様子はない。片山が直樹と武に目配せをした。直樹が軽く頷く。片山が大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、大きな丸い取っ手を片山が蹴り飛ばす。派手な音を立て、扉の片側が室内に激しく倒れ込んだ。
その音に驚いたのだろう。女性の声で軽い悲鳴が上がった。直樹は先頭の片山を通り越して、室内に駆け込んだ。
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