寂寥なき街の王

~一億円強奪 狂乱の宴と自愛の果てに~
yaasan y
yaasan

ノックの音

公開日時: 2025年3月24日(月) 13:47
文字数:2,064

  三軒茶屋にある自分の部屋に戻った直樹なおきは、そこで小さく溜息をついた。部屋は若菜わかながさらわれた時のままで、嵐が去った後のように荒れ果てている。

 

 もっとも、あとは身の回りのものを準備して部屋を出て行くだけなのだ。出て行けば部屋に戻ることもない。だからこの荒れた部屋を片づける必要はないのだ。そう思うと少しだけ心が軽くなる。

 

 直樹は改めて隣にいる若菜に視線を向けた。彼女に起こったこと、そして彼女が受けた傷。

 

 女性にとってそれが精神的に、肉体的にもどれほどのダメージを与えるものなのか。男の直樹では正直、分かりはしなかった。もちろん、理屈では想像できるのだが、それはあくまでも理屈だけの話だ。

 

「若菜……」

 

 直樹はそう言ったものの、後に続く言葉を口にできなかった。

 そんな直樹に対して若菜は眉間に皺を寄せてみせた。

 

「さっきからどうしたの? 変な顔をして。別にあんなのは大したことないわよ。それより……あいつ、死んだのかな?」

 

 死んだとは断言できないが、いずれにしてもそれに近いことが男の運命であることは間違いなかった。

 

「安心しろ。あいつには相応の報いが待ってる」

 

 そういいながら自分の物言いが、暴力団や反社めいてきたと直樹は思う。もう自分も普通の生活に戻れる道なんてないのかもしれない。

 

 いや、ヤクザに追われて日本を脱しようとしているのだ。普通の生活に戻れるはずもなかった。

 

 そんなことを考えていると自嘲したくなってくるが、今はそんな感情にとらわれている時でもなかった。直樹は気を取り直すようにして、さらに言葉を続ける。

 

「持って行くのは、最低限のものだけだ。パスポートも忘れるな」

 

 果たして正規の手段で日本を出ることができるのだろうか。国から追われているわけではないのだから、問題はないようにも思う。

 

 それとも国内最大の広域暴力団は、自分が思っている以上の力を持っているのか。いずれにしても正規の手段で脱出ができない時には、再び片山かたやまを頼るしかない。

 

 片山であれば偽造パスポートでも何でも用意はできるだろう。それに伴う金の話も出てくるだろうが、それは若菜が持っている一億円に頼るしかない。

 

 国外に脱出ができたとして、その後はどうなるのか。東南アジアか南米か。場所に関係なく国外となれば、片山を頼ることは難しくなってくる。

 

 孤立無援の状況に陥るのだ。一年や二年ならば何とかなるとしてもその先は? もしくは二年も海外で潜伏すれば、国内に戻ってくることもできるのか。

 

 それ以上、考えるのをやめた。先のことを考えても、何の意味もないと感じたからだ。

 

 気づくと若菜が無言で自分に視線を向けていることに気がついた。

 

「直樹、あなたは裏切らないでよ」

 

 思いもかけない突然の言葉だった。冗談半分かと思ったが、それに反して若菜の顔は真剣だった。

 

 若菜を切り捨てる。その選択はこれまでにいくつもあった。だが直樹はいつもそれをせずにここまで来たのだ。だから今、四面楚歌の状況に陥っているのだ。

 

「当たり前だ。今さら、何を裏切る。ここまで来たんだ。もう俺だけが無事に逃げ切るなんて不可能だろう」

 

「さあ、どうだかね。でも、信じてるわよ」

 

 若菜の大きな黒色の瞳が真っすぐに直樹を捉えている。

 

「しつこいぞ」

 

 瞳を向けて食い下がるような若菜に不快そうに言ってみたが、彼女の瞳には直樹の言葉に納得したような色は浮かんでないように思えた。

 

 その瞳を見ながら、直樹はふと思った。

 それは逆だろうと。

 

 裏切るのであれば若菜の方なのではないか。そもそも若菜は、打算的に自分を頼ってきたはずなのだと直樹は思う。

 

 たまたまあの時、西麻布で自分が助けた。そして、その自分がたまたま裏社会と繋がりがあった。

 

 若菜が抱えていたトラブルを完全に解決できないにしても、直樹はそれを少しでもいいと思える方向に導いていけるかもしれない人物だった。

 

 だからこそ、若菜は自分の傍にこれまでいただけなのではなかろうか。若菜にとって他に利があるものを提示されれば、若菜は迷うことなくそれを受け入れる。若菜という人間を考えたとき、それは間違いないことのように直樹には思えた。

 

 そんな直樹の思いを知るよしもなく、若菜は部屋を出る準備を始めた。直樹もそれにならって、小さなカバンに最低限必要となるものを詰め始める。

 

 その作業をしながら直樹はなおも考えていた。

 ならば、自分はどうなのか。

 

極限まで追い込まれた時、自分は最後まで若菜を守ろうと思うのか。自分と若菜が助かる術を最後まで探そうとするのか。

 

自分はそんなに殊勝な人間だったのだろうか。偶然に西麻布で出会っただけの女。果たして身を投げ出してまで、自分はそれだけでしかない女を救おうとするのか。

 

 若菜だけでなく直樹の内で自分自身にも疑念が生まれてくる。

 

 ……いや。

 部屋を出る準備をしながら、直樹がそこまで考えた時だった。不意に玄関の扉がゆっくりと叩かれた。大きくも小さくもない音だった。

 

 場にそぐわないノックの音。一瞬にして直樹の血の気が下がる。若菜と直樹は一瞬だけ無言で目を合わせた。そんな静寂の中、もう一度ノックの音が不気味に響いた。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート