蝕・eclipse

さくらいく
さくらいく

innocent

異界・1

公開日時: 2020年9月1日(火) 07:00
文字数:2,003

 朝のうちにたっぷりと水を撒かれたはずなのに、畑の土はすでに白く乾いていた。

 畑と道路の境界に立つ赤樫の古木は、照りつける日差しの中に小さい木陰を作ってくれている。樹齢何百年という幹から突き出した枝の上で、大神秀一は片手を額にかざし、家の脇から延びる一本道を眺めた。

 視線の先には、大きな赤い鳥居がある。大神の家へたどり着くためには、必ず鳥居の下をくぐるらなければならず、こうして眺めていれば、客人をもらさず確認できるのだった。


「センゾガエリノヒメが明日家に来る。仲良くしてやってくれ」


 昨夜、父親である大神秀就おおかみひでなりから聞いた言葉が、秀一は気になってしかたがない。


「センゾガエリノヒメ?」


 まだ九つの秀一は、その言葉の意味がよくわからなくて、まるで呪文のように繰り返した。


「強い力を持った子だ。お前と同じくらいの年だったと思うから、お父さんたちが仕事の話をしている間は、一緒に仲良く遊んでくれ」

? 俺だっては強いぞ? そいつ、俺より強いのか!?」


 ムッとしてたずねた。それなのに秀就は、


「会ってみればわかるんじゃないか? 明日来るんだから」


 なんて思わせぶりにそんなことを言って、詳しいことを教えてくれない。

 はっきりしたことがわからない分、秀一はその「センゾガエリノヒメ」というのが何者なのか、ますます知りたくなってくる。

 もっと詳しいことを誰かから聞き出そうと思ったのだが、秀就の抱える大きなプロジェクトの会合を次の日に控え、一族の者たちは皆忙しそうにしている。

 自分の面倒をいつも見てくれているお手伝いの露も、長い髪を後ろで一つに束ね、木綿の和服の上に割烹着を着て、屋敷中を走り回っており、ひと休みする暇もないようだった。


「秀一さん、ごめんなさい。急なお話でなければ明日の夜でよろしいですか?」


 ようやく話しかけることができたのに、露からの言葉はそっけない。

 優しげな表情はいつもどおりだったが、露の気持ちが自分に向いていないことを秀一はひしひしと感じた。


「……わかったよ」


 不本意ながらもそう言うと、露はニッコリと微笑んだ。


「ありがとうございます」


 少し腰をかがめた露の手が頭の上に乗り、笑顔が近くなる。秀一はそれだけで、うっかり幸せな気分になってしまった。

 そのせいで「センゾガエリノヒメ」というのがいったいどんな子どもなのか、誰にも聞くことができないまま今日を迎えてしまった。


 だから秀一は、赤樫の木に登ったのだ。

 この木の上からなら、大神家へやってくる客人を、見落とすことはない。ここにいれば「センゾガエリノヒメ」というヤツを、誰よりもはやく見つけることができる。


 じいっと目を凝らす秀一の額から、汗がついっと滴り落ちる。

 赤樫の木は緑の葉が生い茂り木陰をつくってくれていたが、風のない午後にはそれでも汗が吹き出した。

 近くの枝にとまった蝉が、じーわじーわと元気良く鳴き始め、更に暑さに拍車をかけていく。

 木に登ってからだいぶ時間が経ったような気がするけれど、まだ目的の子どもの姿は目にしていない。

 さっき眼の前の一本道を通っていったランクルには、子どもがひとり乗っていた。

 しかし。


 ――アイツが「センゾガエリノヒメ」なわけはない。


 その車に乗っていたのは天羽家の当主とその息子で、子どもの方の名前はかける。秀一と同い年の九歳で、翔のことなら、秀一は小さい頃からよく知っている。いわゆる幼馴染というやつだ。

 天羽家は、大神家と同等、もしくはそれ以上の格を持つ家柄だ。その天羽家の直系男子というだけあって、翔も高い能力を持っていたけれども、翔が「センゾガエリノヒメ」だなんて話は聞いたことが無い。

 それに翔だったら、秀就がわざわざ「仲良くしろ」なんて言うはずがない。

 枝に腰掛け、足をブラブラと揺らしながら、なおも一本道を見張り続けていると


「秀一! なにやってるんだ?」


 と、足元から馴染みのある声が聞こえた。

 見下ろすと、先程目の前を通り過ぎていった天羽翔が、赤樫の根本に立っている。

 変な柄のTシャツに、ステテコ。短めの赤毛。

 天羽家の者たちは、体がずば抜けて大きいのが特徴だ。翔も、背の高さといい、筋肉の盛り上がった胸板といい、とても秀一と同い年とは思えない体つきだった。

 そのうえ無口で読書好きな翔のことを、秀一は密かにおじさん臭いヤツだと思っている。


「おまえなんでいっつもそんな変な柄のTシャツ着てるの?」


 秀一に言われて、翔はTシャツの胸のあたりをつまみ、そこへ視線を落とした。

 手と足の突き出た長方形の物体が、サングラスをかけて立っている。その下に「冷奴HIYAYAKKO☆クールガイ☆」と印字されているから、おそらくそれは冷奴の擬人化なのだろう。


「知らないよ。俺の趣味じゃない。一族の男で、変な柄のTシャツばっかりおみやげに買ってくるやつがいるんだよ」

「ふうん」


 さらなるツッコミはしなかったが、秀一だったら、もしお土産でもらったとしても、あんな柄の服は着ないだろうと思った。

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