蝕・eclipse

さくらいく
さくらいく

異界・5

公開日時: 2020年9月1日(火) 07:00
文字数:1,918

「ちっ……くしょう! 信乃!」


 もう、赤樫の木の周辺はすっかり金のさざなみに飲み込まれていて、その中から一本の大木が青空に向かって立っているのだった。真っ青な夏空の下に淀む空気は、ひんやりとした層を作っている。

 ザザザザザザザザザザッザッ……

 びっしりと金の触手に覆われた大地がうぞうぞと蠢動し、信乃の立っていた地面が盛り上がる。


「わ……あっ!」


 信乃はよろけながらも軽く伸び上がり、ジャンプするようにして、秀一の手を握った。


「翔。引き上げるぞ」


 力なら翔のほうが秀一の何倍もあるのだ。引き上げる作業は翔に任せて、秀一は信乃の手を離さないようにすることに集中した。


「いくぞ」


 翔の掛け声とともに、信乃の足が宙に浮き、絡まった触手がはらりと解けていく。

 少し高い位置まで引き上げられると、信乃は近くにあった枝に抱きついた。三人はそれぞれ枝の上に自分の居場所を確保してから、そろって木の下を覗きこむ。

 金色の草のような触手は、うねりながら大木に巻き付いていた。


「おかしい」


 その様子を見ていた信乃が呟いた。

 なにが? と秀一が尋ねる。


「今まで、異界を僕が引き寄せてしまうことはあっても、こんな風に追ってきたり、僕を捕まえようとすることはなかった。ただぼんやりとこの世界に重なって、しばらくすると、もとに戻る」

「え? これって、おまえの力なの?」

「そう。先祖返りと言われる力。異界に渡ることが出来る力」


 これがセンゾガエリノチカラ? 秀一は驚いた。これが信乃の仕業なのだとしたら、確かに桁違いだ。

 すごいじゃないか。

 負けず嫌いな秀一が珍しく素直にそう思ったのに、うつむいた信乃からは、意外なつぶやきが聞こえた。


「だけど、僕は出来損ないだ……」


 出来損ないってどういうことだよと、秀一は訪ねようとしたのだが、翔の声がそれを遮った。


「なあ、もう少し登ったほうがいいんじゃないか?」


 ひょいと下を見ると、うごめく触手は、確かにさっきよりも盛り上がっている。


「いや……」


 秀一は、それでもためらった。

 いくら大木だといっても、先へ行けば枝は細くなる。一人ならまだしも、三人揃ってこれ以上登ることは心もとない。赤樫の木は桜の木などに比べて粘りはあるが、それでも折れる可能性が無いとはいえない。


「これだけはっきりしてるんだ。こちらからの攻撃が効くんじゃないか?」


 秀一の戸惑いを見て取った翔が言った。


「どうやって」

「俺が、雷鬼を呼び寄せようか。どうやら地表以外はまだ異界に飲み込まれてないみたいじゃないか? だとすれば、俺は呼べる」


 空に向かって翔が手を上げた。

 秀一は慌てて翔の腕をつかむ。


「ちょっと待った!」

「なんだよ」


 翔の声に苛立ちが混ざった。普段温厚な翔にしては、珍しい。


「いや、もしかするとこのままもとに戻れるかもしれない……。異界の気配が、薄くなってる」


 秀一はくんくんと鼻を鳴らした。

 ここで雷鬼なんて呼び出されて、暴れ回られたら、畑は大変なことになってしまう。できることなら雷鬼など呼び出さずに済めばいい。


 ――消えろ! このまま消えちまえよ!


 そんな秀一の祈りが通じたのかどうかはわからないが、しばらくすると、三人が固唾を呑んで見つめる先で、少しずつ金色のさざめきが薄くなっていった。

 それに合わせて、すっかり異界の景色に覆われて見えなくなっていた畑の実りが、金の草原の中から浮き上がりはじめる。

 そのまま、この世界のものとは思えない光景は、三人の見ている前で、ふいっと見えなくなってしまったのだった。


 むわっとした暑さが戻ってくる。


 ふうーっ!


 秀一が大きなため息をついた。


「もとに戻ったみたいだな」


 普段はあまり感情を表に露わにすることのない翔も、ほうっと大きく息をついていた。


「秀一は、異界の匂いがわかるのか?」


 一段低い枝から、信乃が秀一のTシャツの裾を引っ張っていた。


「あ? ああ、わかるよ。匂いっていうのか、気配っていうのか。今のだったら、あっちから異界がやってきて、この畑全体を覆った。けど、覆われたのは地面に近いところだけで、上の方にはこっちの世界が残ってた。……信乃は、自分の力なのに、わからないのか?」

「うん」

「翔は?」

「いや。どこから異界で、どこに向かえば現実にとどまれるかなんてことは、わからないな」


 翔は首をひねりながら言った。

 その言葉に秀一のほうが驚く。

 翔はとても強い力を持っているし、格でいえば大神家より天羽家のほうが上だと言われている。秀一としては、当然翔も自分と同じようにわかっているはずだと思っていたのだ。


「おまえ! すごいな!」


 信乃が、キラキラとした瞳で秀一を見上げていた。

 今まで無表情だった信乃に生気が灯ったようで、その顔を引き出したのが自分だと思うと、悪い気はしなかった。


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