答えた者にとっては何気ない一言だ。
だが、彼女には予想だにしないものだった。
「先輩……。今年のイベント、あるんでしょうか……」
「どうだろうねぇ〜。でもさ、なくても次に向けて描かなきゃネ」
美沙の一言は、江美には理解に苦しむものだった。
この世界自体に、次と呼べるものはないかもしれないのに。
「先輩は、どうしてそんなに頑張って漫画描けるんですか?」
「ん〜? だって好きだもん。勉強とか仕事とかさ、やりたくないものとは違うんだよ?
好きなものには本気! 命がけなのさっ!」
ま、仕事はまだしたことないけど。言葉はそう続いたが、彼女には届いていなかった。
ただ、「好きなものには本気で、命がけで……」それだけが重く、心に沈んできたのだった。
好きだという気持ちは誰にも負けるつもりはない。けれど相手を困らせたくはない。
「日々綺麗になっていく想い人は、私を見ていない」だから諦めようと必死だった。
好きだからこそ……。
そうやって胸に秘めてきた想い、それを抱いたまま最後を迎える事などできるだろうか。
いまさら、そんな焦燥感が芽生えたのだ。
けれど、だからといって伝えるだけじゃダメだとも……。
「好きな人のためなら、この命だって惜しくない」
自室の窓から見える空を覆う月を見上げて、彼女は小さく呟いた。
… … …
避難命令。それは、彼女を想い人の住む地へと向かわせた。
シェルターとしての役割を持たせた地下都市の一角。
地上に住み続ける事を決意した者たちは、簡易的ではあるが、各家庭ごとにテントが用意された広大な空間へと案内される。
そこは地下に造成された公園の区画であり、周囲を見れば点々とテントが張られている。
その様子は避難所というよりも、キャンプ場を連想させた。
知り合いが住んでるから挨拶してくる、そう両親に告げ彼女は歩き出す。
そして、人けのない通路をひとつ、また一つと扉を確認する。地上へと続く扉を。
当然ながらそれらは厳重に施錠されており、ご丁寧に「閉鎖中」と張り紙までされていた。
ただひとつ、ただひとつでも開いていればこの想いを伝えよう。
決意の揺らぎを、扉の鍵に委ねたのだ。
けれど扉は、彼女の想いを閉じこめるかのように、どれも硬く閉ざされていた。
そして、気付いた時には、彼女は見知らぬ通路へと迷い込んでいた。
いや、正確には地図が張り出してあり、戻ることは容易だった。
けれど、何度か来たはずの場所なのに、こんな所があるとは知らなかったのだ。
さすが地下ダンジョンと呼ばれるだけはある。
なんて半ば感心しながら、その人通りのない通路を進み、扉のノブへと手を伸ばす。
ガチャリ……。目線の高さに合うよう貼られた閉鎖中の紙は、真実を語ってはいなかった。
… … …
走る。逃げるように、追いつかれないように。
最後の想いを伝えた彼女は、ただひとつの立ち塞ぐことを忘れた扉を開け、暗い階段を駆け上がった。
息を切らし、黒い世界を飛び出したそこは、白き天が落ちる場所。
「私が……、私がやらなきゃ!
世界のためなんかじゃない、先輩のために!」
落ちる空を睨みつけ叫ぶ。けれど、その身体は恐怖に震えていた。
大丈夫、大丈夫。私ならできる。その心の呟きは、音にも文字にもならず消えてゆく。
だが、何の策もないわけではなかった。彼女には能力があったから。
それに気付いた時も、彼女は震えていた。
ノートに殴り書きされたそれが、漫画という形を得てインターネット上を漂ったその時。
その瞬間に、自らに普通ではないことが起きていると悟ったのだ。
見る間に増えていく評価数。そして拡散され、多くのコメントが付けられていく。
美沙によって漫画化された黒歴史。それと比例するように、自らの身体に熱いものが流れ込むのを感じた。
それは満たされゆく承認欲求によるものではない。なにか別の、普通ではないものだと彼女は瞬時に理解した。
同時に、ただ事ではない事態に恐怖したのだ。
その後の彼女は、当たり障りのない物語しか書かなかった。
なんの力もない、一人の少女でいたかったから。
◇ ◆ ◇
その部屋はただただ暗かった。彼の心のうちのように。
妹が帰ってきて小さくノックした。ただ一言伝えるために。
「私、行くところあるから……。何かあったらこの子、385号さんに言ってくれる……?」
そうすると、扉の隙間からコロコロとボールが転がってきた。
それは、あの黄色い局長と呼ばれるものと同じものだ。
彼は小さく「あぁ」とだけ答えた。
彼は思う、妹は“あんな話”信じたのだろうかと。
彼の、そして妹であるカオリの大切な人の最期を見たのはごく少数だった。そして、それは隠蔽された。
その後彼がどうしたかといえば、地下都市運営会社の関係者である一人の男と会わされた。もちろん説明のためだ。
ただ、その話は信じがたいものであり、裏で工作されていることを彼が悟るに、十分な内容だった。
敵に攻撃された場合、演出のため過剰な表現になる。そのため彼の友人は無事だと。
しかし、命に関わるほどの傷を負ったのは事実であり、現在入院している……。そんな内容だった。
ならば見舞いに行くと言えば、集中治療室に入っており会うことはできない。
せめて一目見せてくれという言葉にも、首を横に振るだけだった。
そんな彼らを信用などできるだろうか。その彼らの手の者である監視ロボを信用などできるだろうか。
憎らしげな視線を感じたのか、または偶然か。
385号はゆっくりと、しかし丁寧に話しだす。
「私は話し相手もできます。話せば、きっと気分も良くなりますよ」
彼は、到底そんな気分にはなれなかった。
何を話しても、自身の代わりに散った者の影がちらついて、悲しみと自己嫌悪だけが溢れると信じていたから。
涙も枯れた赤い目は、闇の染まる黒い天井を見つめていた。
「そうですか……。お力になれず、申し訳ありません。
もし何かありましたら、お声掛け下さい」
そう言って、部屋の隅へとコロコロ転がってゆく。
「こちらでお待ちしております」
その声にピクりと彼の耳が動く。
何か、何か大切な事を忘れているんじゃないか……?
『こちらでお待ちしております』
その先に続く言葉……。
『……主様』
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