「長々と、退屈な話を聞かせてしまいましたな……」
話しながら昼食も食べ終えた古市先生は、マイ湯のみから湯気を立てる緑茶をすする。
その姿はまさに「ご隠居様」といった様子だ。
「いえ、参考になりました。今の僕は、まだ教科書通りの授業しかできなくて、興味を持ってもらえませんから」
「先生としてならそれで十分ですよ。それに理系の授業なら、そのまま教えた方が良い場合も多いでしょう」
確かに教科によって、うまくいく方法も違うだろう。
けれど、古文ほど興味を持たせる事が難しそうな教科もないと思い、もっと詳しく聞きたくなった。
「それで、今はどういった授業をされているんですか?」
「むむ……。それを聞きますか……」
「あっ、聞くと何か問題があるようでしたらいいのですが……」
「いえ、ただですね……。お恥ずかしながら、授業らしい授業をしていないんですよ」
少し気まずそうに、ほぼ白一色になりかけているグレーの髪をかき、苦笑いした。
「私の授業は、皆事前に塾で学習している事を前提に、班ごとに現代語訳させているんです」
「え? それで授業になるんですか?」
「えぇ、班員同士で教えあう事で理解はできているようですし、私も見回りますからね。
発表もさせるので、意外なほど皆ちゃんとやってますよ。
ただ、ひとつ条件を付けていて、必ず流行語というか、『本当の現代語』として訳させているんです」
「興味を持ってもらうためですか?」
「それもありますが、私が彼らの話す『今生きている言葉』を知りたいから、という理由の方が大きいですな。
再び面白い回答を貰った時、今度こそ読めるように、ね」
そう笑うご隠居様は、今では教職を心底楽しんでいるようだ。
定年を迎えても再雇用に応じたほどなのだから、彼にとっては天職なのだろう。
そして、その生徒との向き合い方は、教える事、教えられる事が等価値なのだと言っているように見えた。
そうしていると職員室のドアがノックされた。
それは女生徒だったようで、落ち着いた声で「古市先生いらっしゃいますか?」と言うのが聞こえる。
気付いた彼は話を切り上げ、しばらくその女生徒となにやら話し合っていた。
戻ってくれば「昼休みも休めないのが辛いところですな」と笑いながら、冷めた緑茶を淹れなおす。
そして、わざわざ僕の席に再び来たのだった。
「何かあったんですか?」
「あぁ、あの子は文芸部の部長でね。文化祭の件で来たんですよ」
「へぇ、文芸部の……。古市先生は、顧問をしてらっしゃるんですか」
「まぁね、名前だけといった様子だけどね。あと……、天文部も」
「え? 二つも持ってるんですか!?」
「二つ持っているというか……、臨時でね。前に顧問をしていたのが、失踪した先生だったんですよ」
「そうだったんですか……」
彼は湯飲みのお茶をすすりながら、少し目を泳がせた。
その先生の事を思いだしているのだろうか。
「若いのにやる気のある子でね、彼女が赴任してきてすぐ立ち上げたのが、天文部なんですよ。
その様子を見てきたのもあって、このまま廃部になんてさせたくなくてね……」
「廃部って、何か問題があったんですか?」
「いえ、活動自体は問題ないんですがね……。
近頃失踪事件が多発しているのもあって、夜の観測は禁止になったんですよ。
これでは実質的に休部状態で、どうしたものかと……」
まるで無いひげをさするように顎に手をやりながら、ぼんやりと天井を見つめた。
そのまま無くすのは惜しいと思いながらも、専門分野でないために扱いに困っているのだ。
他人事のように聞いていた僕に、彼は突然こう言った。
「そこで、印南先生に顧問をお願いできないかと思っているんですよ」
「えっ!? 僕がですか!?」
「専門外の私では、部員を遊ばせるだけになりますからね。無理にとは言いませんが……」
「う、うーん……。お力にはなりたいのですが……」
渋る僕に対し「ゆっくり考えてくれればいいですよ」と言い残し、彼は自分のデスクへと戻っていった。
どうやら元々顧問をまかせるつもりだったようだ。
ゆっくり考えたらいいなんていう言葉も、時間を置けばそれだけ断りにくくなるだけだ。
本来の目的のためにも、あまり仕事は抱え込みたくないのだが……。ただ、少し気になる所もある。
“僕たち”の関与しない失踪者である前任の理科の教師と、時を同じくして失踪した生徒の共通点、それが天文部だった。
それを調べるのに、天文部の顧問というのは、おあつらえ向きの立場である。
そう考えた僕は、正式に引き受けると答えなかったが「今までの活動の様子を知りたい」と、放課後に天文部の部室を訪れた。
◆ ◇ ◆
廊下やグラウンドから響く生徒たちの声や、吹奏楽部の練習する音で溢れていたにも関わらず、天文部の部室はカーテンが締め切られており、ひどく静かに感じた。
部屋の中には向かい合わせにされた長机と、四脚のパイプ椅子。
本棚には天文学に関する本が整然と並べられ、管理していた者の性格が滲むように、ピシッと背の順に整列させられていた。
定期的に部員が訪れているのか、机等は綺麗に保たれているが、部屋の隅に置かれた望遠鏡等が入っているであろうキャスターのついた箱は、しばらく使われていない事を示すように、うっすらと埃を被っている。
その中で、臨時の顧問である古市先生は棚や引き出しを指し示し、説明を始めた。
「活動記録等はこの棚に、名簿等も入ってます。
天文部はできてそんなに年数が経ってないので、全ての資料がここに揃ってますよ。
私は文芸部を見ないといけないので、鍵はお渡ししておきますね。
何かあれば、文芸部の部室までお願いしますよ」
「ありがとうございます」
説明と言っても、資料の場所を教えられただけだった。本当に彼は、名前だけの顧問のようだ。
天文学の書籍が並んだ本棚とは別の、引き戸が付いた書類入れの鍵を開け、中を覗く。
そうすればきっちりと書類名を書かれ、年度順に並べられたファイル達が姿を現す。
どうやら、この部屋が神経質さを感じるほどに整然としているのは、前任の顧問の影響のようだ。
それらを取り出し、ひとつひとつ確認していると、ドアがノックされる。
そして返事をする間もなく、扉は開かれた。
「こんな所にいたのね、イナバ」
「あ、アリサさんでしたか」
「あなた、天文部の顧問をするんですって?」
「いえ、まだ正式に返事してませんよ」
その声は落ち着いているが、顔は必死に感情を隠そうとしている時のそれだ。
怒っているのか、スネているのかは分からないけれど、不機嫌であろうことは長年の付き合いで分かる。
「やりたいのなら、やればいいじゃない。先生姿もお似合いでしてよ」
「僕が先生をやっているのは、ただの潜入調査ですよ」
「そんなこと分かってますわ!」
やはり不機嫌な様子。何か気に障る事をしてしまっただろうか?
どう答えるべきか悩み、互いに見つめあったまま沈黙が寂しげな部室を覆った。
「何か、怒らせるようなことしましたか?」
「……いいえ。ただ……、もし普通に先生をしたいなら、調査なんてしなくてよろしくてよ。
今のあなたなら、どこでだってうまくやっていけるのだから……」
どこでもうまくやっていける、様々な集団に潜入できるという能力だ。
それは、僕がこの世界にやって来る時に得た能力。
誰とでもうまくやれるというものではないが、違和感なく入り込む事ができる能力。
雑な言い方をすれば、相手に人畜無害と思わせる能力。
それはまるで、前の世界で人外と人間、どちらにも馴染めなかった僕へのあてつけのような能力……。
そうして対象に入り込み、必要な情報を集め、時には中から集団を崩壊させ、もしくは望む方向へと誘導する。それが僕の役目。
今回だって、この学校で覚醒者が多い事や、例の失踪した教師などの調査を行うために、教員として入り込んだのだ。
けれど、彼女の目には僕がそういった事情抜きに、好きで教員をやっているように映ったのだろう。
事情を知っている者でさえ騙すほどの能力なのだろうか……。
そして彼女はいつもそうなのだ。
離れていってしまうかもしれないのなら、自から手放すそうとする。
「失う」のが怖いから、自分で「棄てる」のだ。
また僕は、不安にさせてしまったのだ。あの時と同じように……。
「僕はアリサさんの隣に居ます。たとえ役目が終わったとしてもずっと……」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!