夕日が街を赤く染める頃。
私は路肩に停められた、汚れひとつ無く磨き上げられた黒い高級車の中に居た。
窓の外に目をやれば、高い入道雲がそびえ立ち、間もなくこの雑多なコンクリート群も洗い流されることだろう。
エアコンの効いた車内で人を待つ間、運転手と少し話をした。
「ねぇ、アルビレオ。仕事のほうは順調?」
「はい。特段問題ございません」
「そう。お父様の事、頼みますね」
燕尾服を何の違和感もなく着こなし、運転席に座る彼はルームミラーを動かす。
鏡越しにそのオッドアイが私を見つめた。
少し思考をめぐらすかのように、その白い手袋をつけた手を顎元に当てた後、先ほどの言葉の意図を問うた。
「奥様。何か心配事など、ございませんか?」
「…………。貴方に隠し事はできませんね」
「長く仕えさせていただいておりますので」
互いに小さく笑う。
けれど彼の笑みは、他の人には分からないだろう。
「差し支えないようでしたら、お聞かせ願えますか」
「……そうね。他の人の意見を聞くのも、違った見え方がしていいかもしれないわね」
窓の外には大きな雲よりもさらに大きく、細く光る月が私を見つめている。
その不敵に笑う月を見つめ返しながら、どう話そうか少し考えた。
けれど彼ならば、どんな言葉でもその意図を汲んでくれるだろう。
「私たちのやっている事の意味って、何なのでしょうね」
「と、いいますと」
「女神は言ったわ、『世界を鎮めるように』と。
けれど私たちのやっている事は、覚醒者を異世界へ送ること……。
いえ、逃がすと言った方が正しいのかも……」
「逃がす……、ですか」
彼は再び顎元を撫で、思案する。
これ以上の言葉などなくとも、私の言わんとしている事は理解しているだろう。
けれど中途半端な理解では、彼が発言することはない。
もとより彼の場合、理解した後に発せられるのも、“意見”ではなく“解決策”であるため、解決策などありはしないこの話で、彼が何らかの発言をするとは思えない。
「覚醒者、それは普通の人間とは違う。超能力、または魔法と呼ばれる能力が開花した者達。
今日送った彼も、念力で物体を操れる能力を持っていたの。制御できていなかったけどね」
「えぇ、報告は受けております」
「もう一人、風を操る子も居たけど、彼は見逃したわ。
けれどもし……、女神の狙いが優秀な人間の選別であったなら……。それは間違いだったかも」
「先の無いこの世界から覚醒者を逃がす事が、本来の我らの使命ではないかとお考えなのですね」
静かに頷き思い返す。かの女神の行動を。
自らの命と引き換えに、契約式を続けた我らの契約主。
それを知っていながら止める事無く見届けた女神。
メシアと名乗る者がそのことを口にしなければ、私たちは彼が命を賭していることすら気づかなかっただろう。
自らの過ちによって主を失い涙するベルに対しても、女神は助ける素振りを見せなかった。
全知全能たる彼女なら、彼を助ける事など造作も無いことのはずなのに……。
何事もなかったように、淡々と私たちを転移させようとしたあの時、私は女神には感情が無いのではないかと、薄ら寒さを感じたのだ。
だからこそ、私は疑ってしまった。
彼女は、先の無いこの世界に、憂慮してなどいないのではないかと。
もしあの時、鬼若が異を唱えなければ……。
彼は、そのままこちらの世界へ戻る事はなかっただろう。
どうか主を助けて欲しいと願った鬼若、その代償が我らの使命となった。
その使命の意図を、私は疑ってしまっているのだけれど……。
「私は、それほど悲観しておりません」
「あら、あなたが意見を言うなんて珍しい」
「はい。差し出がましいとは分かっておりますが、私の愚考を聞いていただけますでしょうか」
「愚考なんてとんでもない。ぜひ聞かせて欲しいわ」
「では、述べさせていただきます」
彼は小さく咳払いし、左手を顔の横へ上げたと思えば、人差し指をピンと立てた。
「まず第一に、覚醒者の転移が目的であるならば、転移能力者が少なすぎると思われます」
どうやらその手は、複数の理由を数えるためのもののようだ。
「転移を主目的とするのであれば、私のような補佐役はともかく、旦那様のような記憶改竄等の、隠蔽に特化した能力を用意するのは不可解です」
「そうね。全員を転移能力者にして、覚醒した者全員を、発見次第転移させた方が効率的ね」
「えぇ。この世界の行く先を考慮する必要がないはずですから、転移による世界の混乱を省みる必要がありません」
彼は左手の中指をすっと立て、指でV字を作り、続けた。
「第二に、この世界を見捨てる気なら、アリサ様やアーニャ様の能力の説明が付きません」
その言葉にはっとした。
私は疑心暗鬼になるがあまり、娘たちのやっている事に擬音を投げかけていると気付いていなかったのだ。
彼女たちは、私のように事後処理ではなく、この世界が助かる道があると信じ……、まだ見ぬ未来があると信じて、授かった能力をきたる時のために使っている。
それが無駄だなんて、誰にも言わせる気は無い。それなのに私は……。
「そうね……。きっと私の考えすぎね……」
「何か、理由があるのではないでしょうか。私たちに与えられた能力も、奥様の転移の能力にも。
それはきっと、奥様こそが適任だと、女神は考えたのではないでしょうか」
「ありがとう、少し気が楽になったわ……。
そうね、考えたって仕方ないことだもの。私を指名した、あの女神を信じましょう」
形にならぬ不安が、ため息となって零れた。
こんな弱気になるなんて、この暑さもあって疲れているのかもしれない。
これから事件はもっと増える。
女神の考えは分からないけれど、ここで立ち止まる訳にはいかないのに……。
「少し、疲れの色が伺えますね。
特に……、今回の覚醒者は高校生と聞いております。
精神的な負担が大きかったかと……」
「えぇ、あまり気持ちのいい仕事ではなかったわ……」
彼はただ能力の制御ができなかっただけ……。あれは不幸な事故だった。
けれど私の役割は、それを見逃す事を許さない。
もし娘たちの能力が暴走してしまったら……。私は同じように対処できるのか……。
身近に同じくらいの子がいるのもあって、他人事と割り切れず、いやに心を揺すぶられてしまう。
この葛藤にも、意味があるのだろうか……。
そんな心の呟きをかき消すようにドアが開かれ、待ち人が入ってきた。
「お待たせチヅル! 一人にしてごめんね、寂しかったかい?」
不自然なほどに明るくそう言い放つのは、私の旦那様。アルダだ。
私を抱きしめる彼を、労うように背を撫でれば、甘える仔猫のごとく首元に頭をこすり付けてくる。
「記憶操作は、無事終わりましたか?」
「うん、ばっちりだよ」
「お疲れ様でした」
事件の隠蔽、それが彼の能力。
私たちの姿すら、見た者の記憶には、別人に塗り替えられてしまう。
今回の事件であれば、発生場所が塗り替えられ、学校の図書館からこの繁華街へと変えられた。
ただし一人だけ、自らの能力に溺れないように警告として、完全な改竄を行っていない者はいるけれど。
ともかく、事後処理の私と、隠蔽の彼。
ゆえに私たちは、二人一組で行動している。
「旦那様もお疲れでしょう。今日はこのまま、ご自宅へとお送りいたします。
帰りましたら、リラックス効果のあるハーブティーをお淹れします」
「いつも悪いねアルビレオ! はちみつたっぷりでお願いね!」
「かしこまりました。では動きますので、ご注意下さい」
明るく振舞う姿が見ていて痛々しい。彼も無理しているのだろう。
特に今回は……、暴走したため仕方ないとはいえ、直接手をかけたのだから。
仔猫のように甘えてくる彼をなだめながら、赤い空を背景に流れる街並みを眺め思う。
なぜ女神は私たちにこのような役目を与えたのだろう、と。
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