あの不思議な夢を見たのが八月の末だった。いや、あれは夢だったのだろうか。
最近の俺はどこかおかしい。今回が初めてじゃない。前にも一度あったのだ。
その時は二日ほど行方不明になっていたらしい。今回よりも重大だ。
なんとかひねり出した言い訳が「海を見たくて」なんていう、自分探しのようなものだった。
けれど、あの時とは違う点がひとつある。手首に巻かれた毛束だ。
緊張や不安、そういった心がざわつく時はいつもそれを触っていた。滑らかで、ふわふわで……。
見た目とは裏腹に心地よく落ち着かせてくれるそれは、つい最近手にした物だとは思えぬほど……。例えるなら子供のころから大事にしているぬいぐるみや毛布のような、そういった物になりつつあった。
それを触りながら、俺はただ様子を眺めていた。
今、そんな不安に駆られる理由。それは冷たい光に照らされた倉庫の中に見える人影が、明らかに異質な者を含んでいるからだ。
知った顔が何の警戒心もなくその輪に入り、その中で最も大きい熊型の白いもこもこにダイブしている。
「涼河君、おいで」
名を呼ばれるが……前に進みだそうとは思えなかった。
そんな中、先ほどから聞こえていた女性の声が耳に届く。
「え~なになに? 誰か一緒に来てんの~?」
「あり? どうしたんだろ? もしかして、帰っちゃった?」
「私が呼んできましょう」
つかつかと迫る人、それは今日会ったばかりの人。
人見知りなんてしないけど、それは相手が人の場合であって、この人も人に見えるけど人じゃなくて、えっと人じゃない見知りを……。
「涼河殿、どうされました?」
「えっとその?? ちょっと状況整理を……」
「あぁ、彼らでしたら我々の仲間ですぞ」
落ち着いた声は、俺の問いに答えるよう状況を説明したが、それじゃ不十分だ。
けれどそんな俺を強制的に手を引き、魔方陣の方へと連れ出した。
嫌な空気が濃くなる。全身をねっとりと何かが這うような感覚。
それはその幾何学模様に近づくほどにひどくなる。
「お? 見ない顔だねぇ? どちらさん?」
「この子は堀口涼河君だよっ! 新入りさんなのだ!」
「ちょっと待て、それって……現地民か?」
黒い翼を広げた男は、今さら隠すように仕舞いこんだ。
いや、ホントに今さらなんですけど……。
「あぁ、彼は覚醒済みだから大丈夫大丈夫」
「いや、大丈夫かどうかはそこじゃないだろ!?
上の三役は了承してるんだろうな!?」
「もちろん。彼はアーニャちゃんと同じ能力者だからね。
孫と娘に甘い三役は、アーニャちゃんのためにって言えばイチコロなのさっ」
理解がおいつかない話が展開されているが、俺はどうすればいいのだろう……。
だからって、このまま黙っていても仕方が無い。
「あの……森口さん。どうして俺が呼ばれたんですか?
それに、この方たちは……」
「あぁ、これが初仕事になるかな?」
「初仕事?」
「そそ。新しい仕事のね」
「え?」
新しい仕事。ファーストフード店を辞めて新しく見つけた仕事。
内容は地下街の整備と警備だったような……。ここ地下街じゃなく、倉庫街なんだけどな。
「ま、初仕事が求人に書いてたうちの“その他雑務”って事になるんだけどね~?」
「ちょっと待ってください、森口さんは関係者だったんですか!?」
「そそ。もちろんアカメもね」
俺は一体何に巻き込まれたんだろう……。
キョロキョロと挙動不審な俺に構わず、ツインテールの女は事を進めた。
「なんでもよろしくてよ。早く仕事を終わらせてしまいましょう」
「おっ、ありりんいつになくやる気だねぇ? そんなに焼肉弁当が気になるの~?」
「そっ、そんな事ありませんわっ!」
慌てたように否定するが、その時グゥ~とお腹の音がなり、彼女は顔を真っ赤にさせた。
その頬をふにふにとつつくもう一人の女性からは、なんだか森口さんと同じ空気を感じる。
「ま、終わらせないと二人とも明日も学校あるもんね~。アーニャちゃんもね」
「はい……。はじめましょうか……」
白クマにおんぶされていた少女は、ゆっくりと眠たい目をこすりながら降りてくる。
そして魔方陣の外円に立ち、地に手を付けた。
はじめる? 何を? まさか、例の事件の魔方陣を起動させる気なんだろうか……。
「待ってください! 一体何をしようって言うんですか!?
その魔方陣が本物だったらどうするんですか!」
取り乱す俺に、周囲はポカンとした表情だ。
だが、ここで彼らを止めなければ母さんが事件を解決した意味がない。
必死に少女を止めようとする俺に、ツインテールの女はピシっと扇子で頭をはたく。
「何が目的なんですか! こんな怪しい事にこんな小さい子を巻き込んで!」
「何か勘違いしてませんこと? これは怪しい儀式なんかじゃありませんわ」
「じゃぁ一体何を……」
「これはねー、警察じゃできない捜査なんだよ」
「警察じゃできない捜査?」
「そそ。僕たち警察じゃ、科学的な検証しかできないからね。
けど、アーニャちゃんなら能力を使って、これがどういうものか調べられるってワケ」
「能力……?」
「そう。この子は君と同じ能力を持つって……あれ? レオン先生から聞いてない?」
「レオン……先生?」
レオンと言えば、あの夢に出てきた獅子の獣人と同じ名前だ。
まさか彼とも繋がっているというのか?
「まぁいいや。とりあえずこの魔方陣見てどう?」
「どうって……」
「何か感じる事とかない?」
「そう言われても……」
恐る恐る床に書かれた幾何学模様を見る。正直に言って、直視したくない。
ここが事件の現場だって分かっているからだろうが、嫌な気配があるのだ。
円の中に六芒星の要領で重なった正六角形が二つ。そしてその内側にもう一つの円と、その中にも四つの正三角形と、三つの四角形の模様……。
模様としては普通に描けるそれが、何か禍々しいオーラを放つようで、この場に居ることすら辛い。
「すっごい汗かいてるけど、大丈夫?」
「ちょっと気持ち悪くて……」
「この魔方陣というよりは、この場がかなり汚染されていますからね」
魔方陣を触り、調べていた少女はそう言う。
同じ能力を持つという事は、彼女も同じようにこの異質な空間を感じ取っているという事だろうか……。
いや、俺の場合は突然の事で理解が追いついていないなどの、心理的要因だと思うのだが……。
「なるほど、素質は十分ですわね。これならアーニャの手伝いもできそうですわ」
「え? 俺は何も……」
「いや涼河君、今ので十分だよ。レオン先生の話もあるからねー」
「えぇ。では地下街の整備、よろしくお願いしますわね」
「研修は誰がするー?」
「そうですわねぇ。前に会ってるのですし、レオンに任せますわ」
「よしっ! じゃぁ僕も一緒にいくぞー!」
「ちょっと? 貴方の仕事は別にありましてよ?」
俺を置いて話が進んでいるが、本当に……本当に訳が分からない。
一体俺をどうしようと言うのだろうか。だが、ここで立ち尽くしていても仕方ない。
「あの、俺は何をさせられるんでしょうか……」
「ま、それは今後ゆっくりねー。
今回は能力が実用レベルに達しているかのチェックってとこだよ」
「詳しい事は追々お伝えしますわ。あ、あと貴方の行動は監視されてますの。
変な気を起こさない方が身のためでしてよ?」
「監視っ!?」
「ふふん。ボクたちの組織はどこにでも居るのさ!
ま、協力するなら悪いようにはしないよっ!」
非常に良い笑顔でそう言うが、何の信用もできるわけがなかった。これから俺はどうなってしまうのだろうか……。
今はただ、手に巻かれたお守りを撫でる事しかできなかった。
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