懐かしい匂いでふと小さい頃の事を思い出すように、何気ない日常の一幕で一瞬にしてカオリは全てを思い出した。永遠に続くかと思われた高等部二年生の日々を。
そしてそれが決して夢などではなく本当にあった事なのだと、地下街を進んだ先の会議室で懐かしい顔ぶれに出会い確信したのだった。
集められた人々は丸いテーブルに円を描くように座る。
アルビレオによる優雅な手つきで入れられた紅茶と茶菓子を前に、会議というよりはお茶会といった雰囲気を出していた。
「でさー、くらちんはまだ思い出さないワケ?」
「えぇ、こうして我もこちらへ来たことで、何か変化があるかと期待したが……」
セルの疑問に答えるのは、ようやくこの地へ降り立ったベルだった。
世界を渡った者たちの会合。それに初めて参加したカオリは懐かしさとともに、なぜこれほどまでに大切なものたちの事を今まで忘れていたのか、と自身に嫌悪した。
「しかし、彼は理屈っぽいというか、無駄に理性的なところがありますわよね?
記憶が戻っていたとして、夢だと思い込んでいる可能性もあるんじゃなくて?」
「それはないと思いますよっ!」
全てを思い出したカオリにとっては、アリサの指摘は意外に感じた。
今この世界のアリサの立ち位置を知ってはいるものの、あの世界で兄に聞いていたアリサの人物像とは異なっていたからだ。
そしてそれに答えるは、隣でちょこんと座っていたクロだ。
今はやっと半獣の姿でいられるようになり、少しリラックスしているようだった。
犬で居るのはやはり慣れないのだ。
クロもまた、こういう場で積極的に発言するような人……いや、犬ではない。
けれど発せられた言葉は、クロにしか分からない今の兄の状況だった。
「もし思い出してるなら、夢だと思っていても、クロのおなかをわしゃわしゃなでるなんてしませんよ?」
「あー……。それは通報すべき案件だね!」
「その時は、僕が飛んでくから安心してね!!」
暴走ケモナー警察官が食いついたが、この場に居る全員が「何も安心できねぇ」と心の中でつぶやいたのは言うまでもない。
当の本人であるクロは「犬の性には逆らえない」と服従のポーズを見せる事を、セルと楽しそうに話していたのだが……。
そうやって脱線しかけた話を鬼若が引き戻す。
その姿は、いつもの猫耳を外しており、ツノが見えている。
彼もクロと同じくこちらの世界に馴染めるようにと苦労しているのだと、懐かしいその姿に人知れず思いを馳せた。
「しかし、カオリが覚醒したのに、なんで主様はいつまでもそのままなんだ?」
「そりゃ、やっぱアレだろ?」
「アレ?」
ミタ爺こと三田聖夜が、ニヤニヤと思わせぶりにモミアゲとつながる髭を撫でながら言う。
そういう時はたいていロクな事を言わないと、娘であるチヅルと孫のアーニャは悟っていた。
「ほら、アイツって運がないだろ? 俺との契約を外すくらいには」
「それは今も変わらずそうだけど、それがどう関係しているんだ?」
「つまり、ツキがないって事だ。だから月の影響も受けねぇんだよ」
「ダジャレか!!」
ガハハと自分で言っておいて笑うミタ爺だったが、場は静まり返っていた。
鬼若のツッコミさえも、それを見かねてのやさしさだ。
だがただ一人、その戯言を真に受けた者がいた。それがアルダだった。
「いえ、意外と関係あるかもしれませんよ。
私たちの調べでは、月の接近と共に覚醒する者が出てきたのです。
なので、彼が何らかの理由で、その影響を受けていないと考えれば自然です。
ついでに言えば、その時期と地下街の未整備区画の魔物の出現もリンクしているようですね」
地下街の整備担当のアーニャと、警備のレオンもそれには頷く。
三田爺は得意げな顔で「ホレ見ろ」というが、隣に座るアルビレオが冷静に「運のあるなしとの相関関係は不明ですよ」と、表情一つ変えず語りかけた。
彼ら二人は社長と秘書の関係なのでいつもの事なのだが、そんな様子にカオリは少し微笑ましく思えた。
「ま、月が関係しているのも調べてて分かったってだけで、本気で運が関係するなんて思っちゃいねえよ。
それよりも、もう時間がない。覚醒者は増え続け、そいつらは逃げられぬ終わりを認識しちまってる。
そうなりゃ、実際に月が落ちて終わるよりも、暴走した人間が世界を終わらせちまう。
地下シェルターに関しては、受け入れる用意はできているが……」
「何か問題があるのか?」
「どうやって、あのオーパーツとも言うべき施設を誤魔化すかが問題ですの」
地下シェルターというのが整備された地下街の事だ。
もちろん、ただ地下に避難するだけで助かるはずもない。
けれどそこはアーニャ達が能力によって繋げた亜空間であり、表層とも言うべき時空で大災害が起こっても、亜空間の深さに応じて影響を抑えられる。
いわば、バームクーヘンの外側を押しつぶされても真ん中は影響が少ない様子と同じだ。
そのようにカオリは事前に聞かされていた。
カオリも修学旅行の時に亜空間の話を聞いていたのでその説明で納得した。
だが、実際は助かる見込みがないだろうと他の面々は考えていた。
今回の件は大災害では済まないのだ。バームクーヘンのたとえで言うなら、鬼若が本気で拳を叩きつければ、中心部が助かるなどとは思うまい。
けれどそれは誰も口には出さない。
たとえ希望が見えなくとも、絶望を乗り越えようと全力でぶつかっていくのが彼らなのだ。
そして心配させまいとカオリにも、例え運なき主が思い出そうともこの件は伏せると、言葉にせずとも皆認識していた。
「避難所にするのに、誤魔化す事なんてできるのかな……?」
「構造的なツッコミどころは、協力者に指摘してもらって大丈夫なんだけどね~」
「広すぎる点と、世界各地の出入り口と繋がっている点。そのあたりは区画分割で対応してますの」
「けど『月が落ちてくるからみんな避難してくださーい!』って言ったら、混乱するでしょ?」
「それに、中にはレオンやロベールのように、地上に出せない者たちを匿ってますもの。
対魔物の警備担当でもありますし、さすがに隠し通せませんわ」
「そうだねぇ。安全のためにも、レオにぃには頑張ってもらわないとだネ」
カオリはアリサとセルが交互に説明するたびに、双方と目を合わせるためにキョロキョロと顔を左右に振った。
そして出てきた名前を聞くと、前までは先生と慕っていた獅子獣人レオンに目をやる。
クロのように、うまく化けられる者もいれば、そうでない者もいた。
ロベールに至っては“動くぬいぐるみ”であるから、化ける云々よりも、化けて出た怨念のようなものだなと、その出生を知っているからこその感想だ。
そして、カオリは事前に案内された地下街……、今や地下シェルターとなった施設を思い出す。
避難所とは程遠い、超巨大マンションのような住居区、完全に自給自足できる農業区、生活資材を生産する工業区。そして地下街の賑わいを受け継ぐであろう商業区と、それらを管理するための行政施設や教育機関、インフラ施設等々……。
それらは完全に一つの街であり、街同士が集まった国と呼べる規模になっていた。
「地下シェルターを見せてもらったけど、あれは避難所っていうよりは、住むための場所だよね」
「そりゃねぇ。地上にいつまでも出れなくなる可能性があるからね~」
「そっか。安全になるまでは、ずっと地下で暮らさないといけないんだね」
「そゆことそゆこと。だから、やりすぎなくらいのコダワリを詰め込んだんだよ~」
「……それじゃあ、避難じゃなくて、移住者を募る方が良くないかな?」
「えっ?」
セルはポカンとした表情を見せる。
それもそのはずだ、彼女らにとっては避難するための場所と考えていたがゆえに、そこに移住するなどとは考えてもなかったのだ。永住できる施設を構築しておきながら、だ。
それは、地下に住みたがる者が居るはずもない、その考えが根底にあったのも一因である。
「覚醒した人は、月が落ちてくる事が認識できるって話だったから、希望者も居ると思うの。
それで、いざ落ちてきたって時には避難所として開放すれば、人が一斉に押し寄せるってことは防げるんじゃないかな?」
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