彼女の心のわだかまりは、私がどうこうできるものではなかった。
自身の心の整理が付いた時、彼女はやっと落ち着いて周囲を見ることができたのだ。
けれどその時気付いたのは、家族間の関係が変わってしまっていたということだった。
私に言わせれば、突如家族の一人が行方不明になるという事件があったにも関わらず、それまでと何の変化も無いなんて事の方が異常だと思う。
だから、本当に問題なのは、彼女の精神的な問題だ。
私は精神科医でもなければ、カウンセラーでもない。
なのでどうにかできるとは思わないが、少なくとも話を聞く事くらいはできる。
言葉にするだけで、聞いてもらえるだけで、気持ちが落ち着くことだってあるのだから、真摯に寄り添う事が今の私にできる唯一の対処法だろう。
そして話の中で、特に彼女が気がかりにしていた事が、息子であり、夏音さんの兄に当たる真君が家に寄り付かなくなった事なのだとか。
「確か真君は、今年高校生になったばかりだったかしら?」
「えぇ」
「夜も帰ってこない日があるの?」
「いえ、日付が変わる頃まで居ない事はないんですが……。
夜10時ごろくらいになる時もあります」
「そうなの。もちろんそれは、塾とかアルバイトとか、そういうのではないのよね?」
「はい。どこに行ってたか聞いても、友達と遊びに行っていたとしか……」
「そうね、心配になるのも分かるわ」
私は考えを巡らせた。彼とは夏音さんの件で数回会っているが、悪い遊びをするような子には思えなかった。
むしろ、そういうことをする人達とは真逆の、どちらかと言えば大人しい子だったと記憶している。
もちろん、妹さんの事があった直後で気持ちが落ち込んでいたからそう見えた、というのはあると思うけれど。
ただ、彼はもう高校生なのだし、少しくらい夜の遊びに興じてみたくなる年頃だろう。
むしろ、夜10時には家に帰っているのは条例的にもセーフだし、補導の対象にならないよう考えての行動だろうから、警察関係者としては、他の同年代の子達に見習って欲しいくらいだ。
そう考えると、ウチのバカ息子よりもよっぽどいい子に思えてきて、彼女が何を悩んでいるのかと言いたくなってしまう。
もちろん言わないけどね。
そういった状況から、これは真君の問題ではなく、彼女の精神的な問題だと私は考えた。
娘さんの事があったのだから、心配性になったり、精神的に不安定になるのは仕方ないのだけど……。
「旦那さんには話したの?」
「えぇ。けれど主人は、そういう年頃じゃないかって言うだけで……」
「あまり心配してらっしゃらないのね」
「いえ、心配だとは言ってましたが……。だからといって、見張るわけにもいかないだろうと……」
「そうよねぇ……」
旦那さん、確か名前は勤さんだったかしら。彼の言うことはもっともね。
もちろん親として、こんなに失踪事件の多い世の中なのだから、心配しないはずがない。
けれど親がしばり付けるには、いささか大人すぎる。
親から見れば、子供はいつまでも子供なんだけどね。
「真君は……、すこし家に居づらいのかもしれないわね……」
少し考えた後、そう切り出した。
彼女はこの言葉にピクッと反応して、半ば呆然とした様子で私をまっすぐ見つめる。
「えっとね、真君って高校に入学して、まだ慣れてないような時期に妹さんの事があって……。
家に居ると、妹さんの事で頭がいっぱいになっちゃうんじゃないかしら。
だから友達と遅くまで遊んで、楽しい事……いいえ、“楽しいと思いこめる事”で頭の中をめいっぱい埋めて、考えないようにしてるんじゃないかしらね」
「そうなんでしょうか……」
「あっ、もちろん私の想像だけどね。
けど職業柄、いわゆるグレた子たちを何人も見てきたから、そう思ったの。
そういう子たちって、埋められないものを別のもので埋めようとしている子が多かったのよ。
だから真君も、もうしかしたらそうなんじゃないかなってね」
暗い顔をして、彼女は視線を落とす。
グレてしまった子を引き合いに出すのはマズかったかと少し後悔したが、言ってしまったのは仕方ないので方向修正しよう。
「真君はきっと大丈夫よ。
今まで警察のご厄介になった事はないんでしょ?
だから、ちゃんと良い事と悪い事の判断は付いてるはずよ。そこは信じてあげましょう?」
「……はい」
「その上で心配だとは思うけど、少し見守ってあげて欲しいと私は思うの。
元々難しい年頃というのもあるし、いわゆる反抗期っていうのも、大人になるために必要なものだからね?
運悪く、妹さんの事がきっかけになってしまったけれど、それ自体は誰しもが通る道よ?」
「堀口さんの息子さんも、そういう時期ってありましたか?」
「もちろんよ。なんなら、今だって反抗期よ?
最近だってふらっと居なくなって、すごく心配させてね。
問い詰めてやったら、『海が見たくなって遠出してきた』なんて言うのよ!?
もう、心配を返してって思ったわよ!」
重くなってしまった空気を吹き飛ばすように、プンプンとコミカルに怒った雰囲気を出してみたけれど、彼女の表情は愛想笑いといった程度だ。
やはり何をおいても時間が必要だろう。彼女にとっても、真君にとっても。
といっても、先ほどの話が嘘というわけではない。
ふらっと居なくなり、バイトをサボって二日も行方を眩ましたバカ息子。
心配なんて言葉じゃ足りなかった。
けれど、この事があったから、今は彼女の気持ちも少しは分かる。
「でもね、その事があったからこそわかったの。私たちは信じるしかないんだって。
きっと大丈夫、大丈夫だから……。そう想いながら、見送るしかないのよ。
大丈夫、真君なら大丈夫。そして夏音さんも大丈夫、絶対無事に見つかるわ。
そう、信じましょう。ね?」
「……はい。私も……、信じます」
まだ自信を持って言えるほどではない。
けれどそれを口にできたのは、彼女にとっては進歩だと思いたい。
そして私は、「由美さんなら大丈夫、きっと乗り越えられる」と、信じることしかできないのだ。
心配もほどほどに、でも一人きりにはならないように言い聞かせてね。
そう立場上言わなければならない事を付け加えた所で、私たちは今川家を後にした。
外に出た途端に汗が噴出す。
あまりの暑さに少々めまいを感じながらも、再び車を目指し歩みを進める。
「それにしても暑いわね……。
それはともかく、ああいった感じで、ご家族の悩み相談みたいな事をするのも、私たちの仕事ってワケ。
さっきの話は、ちょっと踏み込み過ぎたかもしれないけどね」
「そんな事ないと思いますよ。相手の方、話を聞いた後は全然雰囲気変わってました。
それに、最初会った時から、すごくナトさんの事信頼してるって感じがしました」
「あら、ありがとう。そうね、何度も会う事で、少しずつ信頼の積み木を積み上げていくのよ。
印南君も大変だとは思うけど、一緒に頑張りましょうね」
「はいっ!」
元気な返事に、私も先輩として自信を持って、そしてこの暑さに負けずしっかりせねばと、気合を入れなおす。
しかしその気合も、戻ってきた車内の灼熱地獄の前には溶けて流れてしまいそうだ。
エンジンをかけ、エアコンが動き出してもしばらくは熱風だけが吐き出される。
少し冷えるのを待つと共に、次の訪問先を確認する事にした。
「次はどこだったかしら」と問えば、印南君は鞄から資料を取り出す。
そして、なにやらせわしなく紙の束をばたばたとさせていた。
その資料というのが、担当している人の名簿だ。
元は手書きだったのを、印南君が私について回る事になったため、パソコンで入力しなおしてくれることになっていた。
「どうしたの? 名簿は整理してくれてたのよね?」
「えっとそれが……。
事件発生順でソートするつもりが、間違えて失踪者の生年月日順にしてしまって……」
あわあわと焦る様子は、まるで「急がなきゃ急がなきゃ」と駆け回る、不思議の国のアリスに出てきたウサギのようだった。
少し微笑ましいのだけど、ミスはミスなのよねぇ……。
「バカねぇ……。
まっ、私もコンピュータというか、機械にめっぽう弱いから、人のこと言えないけどね。
一緒に探すから、半分貰えるかしら」
自分で入力できるのならやっているし、見やすいようにと整理してくれたので、あまり強くは言えない。
それにこの程度のミス可愛いもんだしね。
「スミマセン」とショボくれる印南君は、やっぱり小動物を連想させた。
うーん、確かにこれじゃあ、警察官としてはちょっと頼りないかもね。
なんて思いながら私は、整然と並ぶ小さな文字をなぞり始めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!