このインターホンを押すとき、俺の手はいつも緊張で震えてしまう。
うだるような暑さが幾分和らぐ夜八時。
今日こそは昔の名で呼ばれるのではないかという小さな期待と、それならば電話のひとつもするだろうという冷静な思考と……。
夜風に吹かれる柳の枝のように、ふたつの思いの間で俺の気持ちはたゆたう。
意を決しボタンを押した俺は、悟られないようにいつも通りの定型文を口にした。
「こんばんわ! シロネコカワチっす! お荷物お届けに参りました!」
「おう、慶治か。今開けるから」
返ってきた声は今日も期待したものではなかった。
それは、その時がまだ来ていないという事であり、世界に異変は起こりつつも彼らにはまだ影響がないという証明だ。
そのこと自体は喜ばしい事だ。けれど俺の寂しさは募りゆく。
ガチャリとマンションのオートロックが開錠された音に我に返れば、余計な思考を置き去りにするように、配達物のスーツケースとダンボール箱2つを抱え、俺は階段を三段飛ばしに、三階へと駆け上がった。
302号室の前、息と身なりを整え、再びインターホンを押そうとした時、見計らったかのように部屋の主が扉を開けた。
「早すぎねえ!? エレベーターってこんな早かったっけ?」
「あ……、階段で来ましたので……」
ざわつく心を写したように言葉がうまく出ず、ぎこちない返答となった。
しかし、彼は気付いているのかいないのか、特段気にする様子もない。
「こんなに荷物あるのにか……。さすが普段から配達に走り回ってるだけある、すごい体力だな。
あ、荷物は中に置いてもらえるか」
玄関へと入り、部屋へ続く廊下へと配達物を置く。
中は男の一人暮らしとは思えないほど綺麗に掃除されており、ワンルームマンションであるが広めに造られているため、荷物を置いても行き来の邪魔になる事はない。
部屋自体も広く、多少無理をすれば二人で暮らせるほどだ。
そのためカオリは、隣の部屋を借りていながらも、寝るとき以外は彼の部屋に入り浸っている。
今日は姿が見えないけれど……。
そんな事を考えつつ、荷物に貼られた伝票を外し、受け取り印の代わりにサインを書いてもらう。
その間、俺は片膝をついて待っていたのだが、その姿に彼は苦言を呈した。
「今までスルーしてきたけどさ、そんなに畏まらなくてよくないか?」
「あ、この姿勢の事ですか?
ええと、これはお客様を上から見下ろす事が無いようにという配慮ですよ」
「そうか、お前背が高いもんなぁ……。何センチあるんだ?」
「2m8cmです」
「まさか答えがメートルで返ってくるとは……」
なんとなく発した言葉に、彼は苦笑いだ。
しかし、この身長と、他の人より大柄な体格もあいまって、初めて会う人には大抵怖がられてしまう。
こうして膝をつく姿勢も、彼が俺の元主であるのとは関係なく、他の配達先でも同様だ。そのため、慣れた客先に行くと『ネコ耳の騎士』なんて呼ばれていたりする。
この世界ではコブという事になっている角を隠すために、帽子に付けられたネコ耳がその由来だ。
最近では悪ノリした同僚が、反対側に尻尾をつけたため、完全なネコキャップとなっている。
おかげで怖がられることは減ったが、なにか大切なモノを失った気がする……。
「ほいよ、伝票返すな。で、今日はこれで終わりか?
カオリなら今、犬の散歩行っててな。中で待つか?」
「えぇ、ありがとうございます。それにしても、こんな時間に散歩ですか?」
「ほら、夏場は地面が熱くなるだろ? だから日が落ちてしばらくしてから行くんだよ」
「そうなんですか。クロがいるので大丈夫だと思いますが、夜は少し心配ですね」
「ま、この辺は治安も良いし大丈夫だろ。近所の公園行くだけだしな」
そういった話をしながら、先ほどの荷物を二人で手分けして持ち、部屋へと入った。
中は冷房が効いており、外での仕事をしている俺にとってはまさに天国だ。
そんな俺にお疲れさんと労いながら、彼は冷蔵庫からペットボトルのお茶を出してくれる。
「そういや晩飯まだだろ? レトルトのカレーくらいしかないけど食うか?」
「ありがとうございます、ご馳走になります」
「それじゃ準備するから、ちょっと待っててくれ」
さっと台所へと向かい、なれた手つきで棚からレトルトのカレーとごはん、そして食器を取り出し準備してくれた。
彼は俺の好物がカレーだと知っている。
けれど、彼はなぜ俺がカレー好きかは思い出してはいない。
俺にとっては思い出の味。後ろめたさという重荷を下した先、不安を覚えながらも決断したあの時、皆で分け合った特別な料理だ。
そんな特別も思い出も、共有できないのならば……、それは夢や空想と何が違うというのだろうか。
彼の背を見ながら、ぼんやりと思い耽っていた。
そうしていれば、あとは温まるのを待つだけとなった彼は、先ほどの荷物を確認する。
「今回の荷物って、いつもより多いですよね。何かあるんですか?」
「あぁ、ベルがしばらくこっちに来るからさ、着替えとか先に送ってきたんだよ。
けど、思ったより多いな。それに伝票の名前も“ベル・テイラー”になってるし……。
あいつが名前を省略して書くなんて珍しいな」
少し不審そうな、もしくは心配するような顔をしているが、それもそのはずだ。
ベル・テイラーことアナベラ・テイラーは、俺や三田爺と同じく世界を渡った、あのベルだ。
そして、それを思い出したと伝えるために、あえてベルと記したのだ。
もし彼が同じく思い出しているなら、小さな変化にも気付く彼ならば、それで十分伝わるだろうと分かった上で。
しかし現実は、違和感に気付きはしたが、本人が思い出していないのだから無駄だった。
「あ、俺ちょっと電話しないといけないんでした。すみません、すぐ戻ってきますんで……」
「ん? 仕事の話か? 玄関の鍵開けとくから」
その声を背に、俺はマンションの廊下へと出た。むわっとした暑さと湿気が身を包む。
人が来なさそうな廊下の隅で、俺はスマホの履歴から電話をかけた。相手はベルだ。
彼には無意味だったが、俺は伝票の確認をした時に気付き、連絡を取っていた。
数コール後、少し不機嫌そうな聞きなれた声が届く。
「どうした、今日二度目ではないか」
「あぁ、荷物届けたんでな。主様の様子を伝えようかと」
「ほう、貴様にしては殊勝な心がけだな。それで、思い出しそうか?」
「いや、全然だな。お前も思い出したし、もしかしたらと思ったんだがな……」
「そうか……。残念ではあるが、その方が良いだろう。
覚醒はリスクも大きいからな。くれぐれも……」
「わかってるって」
リスク……。それは思い出すという事は、世界の異変の影響を受けるという事だ。
だからこそ誰もが無理に思い出させようとはしないし、ベルだけでなく三田爺も、いつも俺に釘を刺す。
「それでだな、荷物が多いって不審がってたぞ?」
「あれでも、かなり減らしたのだがな……。しかし、旅行にしては多いのは確かか」
「旅行なんて言わずに、正直にこっちで住むって言えばよかったんじゃないのか?」
「そういうわけにもいくまい。我は、その時を越えてからと考えているのだ。
移り住むと言えば、彼の性格からしてすぐに結婚という話になるだろうからな」
「えぇ……、そうなるとお前の事を“お義姉さん”って呼ぶ事になるのか……。
うわ、違和感しかねぇ」
「待て、貴様もまだカオリと結婚しておらんだろう。
はぁ……。まったく、カミサマってのは無茶な“設定”を付けたものよ……」
「嫌なのか?」
「そんな事なかろう……。って、何を言わせるのだ! もう切るぞ!」
「はいはい、また何かあったら連絡するよ。それじゃあな」
俺が言い終えるかどうかという所で、フンという恥ずかしさを誤魔化すような鼻息と共に、電話は切れた。
ふと夜空に浮かぶ大きな、大きな月を見上げ、ため息をつけば、かすかに香るカレーに誘われるように、俺はその場を後にした。
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