「随分と遅かったな」
夜羅と話をした後、きっちりと買い物を済ませた弥夜は、両手一杯に買い物袋を抱えて事務所へと戻った。
「えへへ、乙女の嗜みってやつかな?」
「はあ? 何だそれ」
テーブルの上に置かれた買い物袋には様々な食材が詰め込まれており、茉白は手馴れた様子で冷蔵物を仕分けると冷蔵庫にしまった。弥夜はお礼を言うと茉白の隣に腰を下ろし、一息ついて飴を咥える。
「事務所はちゃんと入れた?」
「ドアノブを捻る回数を忘れて一時間も掛かった。ややこし過ぎるんだよ」
「ややこしくなんてないよ。この世界で生き抜く為には多少の仕掛けも必要でしょ?」
「だったら自分が強くなれ」
「無茶言わないでよ」
もごもごと垂れる文句。口から飛び出した飴の持ち手が不満を示すように不規則に動く。
「この飴ね? 実は鎮痛剤なんだ。定期的に食べないと背中の火傷跡が疼いて疼いて……とてもじゃないけれど自分を保っていられないの。本当はもう痛くない筈なのに、過去の記憶って凄いよね。今でも傷跡を当時のように抉ってくる」
素直に驚いた茉白は僅かに視線を落とした。
「……悪かったな、何個か貰ってしまって」
「たくさんあるからいいよ? 私が勝手に口に押し込んだだけだし」
「それでも生きる為に必要なものだろ」
勢い良く立ち上がった弥夜は、ソファに座る茉白の背後へと回ると勢い良く手を回して抱き締める。シャンプーの甘い香りがふわりと舞った。
「なになに珍しく萎れてるの? えっちしてくれなかったくせに」
肩口までの綺麗な銀髪に頬が擦り付けられ、鬱陶しそうに抵抗する茉白はため息をついた。
「してくれなかった? うちがいざ手を出そうとしたら、お前がビビって震えてたんだろうが」
「歳下の子供相手に何をビビるのかな? いいよ? じゃあ此処でする? それとも……電気がついていたら恥ずかしいタイプ?」
「解ったから離れろ」
「えー、やだやだ」
「この変態が」
飴を噛み砕きながら抱擁は続く。
「耳元でガリガリうっせえな、飴は舐めて喰うもんだろうが」
「あれあれ茉白? ガリガリだけにカリカリしてるのー?」
「……うっざ。それ面白いと思ってんのか?」
「うん、超面白いよ」
舌打ちをした茉白は弥夜を振り解くと煙草に火をつける。即座に部屋内に充満する煙が、電気の元で強く存在を主張した。
「さて、茉白にイヤイヤされちゃったところで、私はご飯でも作ろうかな」
弥夜は気合を入れて腕捲りをし、細く色白な腕を露出させた。
「出来ないくせに」
「今日はね? 苦手なりに少しやりたい事があってね。嫌いな食べ物はある?」
「特に無い」
「わお、育ち良しっと」
「うちの過去を聞いた後で、よくそんな事が言えるな」
「別に、育ちを決めるのは必ずしも親じゃない。貴女の心の持ち方一つで何もかもが変わる」
確かにそうかもしれないな、と胸中で肯定した茉白は、肺一杯に吸い込んだ煙を吐き出す。そんな彼女を横目に、弥夜は事務机の上に置かれた熊のぬいぐるみに視線をやった。
「ぬいぐるみちゃん、此処に置いたんだ」
「邪魔なら勝手に動かしてくれればいい」
「ううん、良いと思う」
「さて」と仕切り直し。キッチンへと向かった弥夜は料理という戦いに臨む。ある程度料理の心得がある茉白は、焦げた臭いや時たま上がる悲鳴に、内心不安を募らせた。
後ろ姿でも解る、不器用過ぎる包丁捌き。ぼうっと見ていた茉白はある違和感に気付く。だがそんな違和感を掻き消す程の料理下手に、彼女の心は恐怖に支配された。
それから数時間。
弥夜が歓喜の声をあげる事により戦いの終結が物語られる。子供のような純粋な笑みで茉白の前に置かれた料理は、可愛いキャラクターの絵が書かれたお弁当箱に詰められていた。
「茉白? どう……かな?」
所狭しと詰められた料理はオムライスに唐揚げ、そしてハンバーグと、子供が喜びそうなものがてんこ盛りだった。
「どうして弁当箱にわざわざ詰めるんだ? 水屋に皿が入ってるだろ」
「うん……あのね? 茉白言ってたでしょ? 親の愛情を生まれてから一度も感じた事が無いし、お母さんのお弁当すら食べた事が無かったって」
目を見開いた茉白はお弁当箱に視線を落とす。明らかに火が通っていなかったり焦げてしまっていたり、盛り付けも酷く、本当に料理の出来ない者が作ったような見栄えだった。
それでも茉白の目には、今まで食べてきたものの中で一番美味しそうに映った、世界一の料理に映った。
「早く食べて? 隠し味も入れたから」
「……いただきます」
遠慮がちに食べる茉白は、口の中に広がる味とは別に、喉奥が形容し難い感覚になった事に気付く。 それは鼻を突き抜けて目頭へと至り、無意識に流れ落ちる涙は彼女自身も驚く程に止まらなかった。
僅かに荒くなる呼吸、相反して食べる事を止めない手。食べ物は次から次へと口の中へと運ばれる。
「茉白!? ごめんね!? そんなに泣くほど不味い……?」
「馬鹿が……美味いんだよ……」
「え……?」
「お前が言ってた通り、言葉にならないくらい美味い……」
初めて知ったお弁当の味を噛み締めるように、茉白は大切にそうに涙を流しながら食べ続ける。もらい泣きを無理矢理に堪えた弥夜は無い胸を張り、腰に手を当ててドヤ顔を見せた。
「当然も当然、あったりまえでしょ。隠し味は……愛情なんだから。親から愛情をもらった事が無いのなら私があげる、お弁当を食べた事が無いのなら私が作ってあげる。だからさ……茉白。この世界で生きる目的が無いなんて、そんな悲しい事もう言わないでね」
心からの感謝を抱いた茉白は、静かに咽び泣きながらお弁当を残さず食べ切った。
「ご馳走様……ありがとう弥夜……」
「えへへ、素直で宜しい。お姉さんに任せなさい。生きてさえいればきっと救われる……明けない夜は無いんだよ」
吹き荒れる先輩風の中、茉白の頭が優しく撫でられる。今度は一切の抵抗は無く素直に受け入れられた。そんな優しい時間の中で何かに気付いた弥夜は短い声を発する。
「茉白!? 私の分は!?」
「え……?」
「二人分盛り付けたのに」
制服のミニスカートから露出した、茉白の太ももに抱きついて項垂れる弥夜。どさくさに紛れてスリスリする彼女は、また食べ物にありつけない事を嘆く。
「先に言えよ、道理で多かった訳か」
「半分吐いて?」
「めちゃくちゃな事を言うな」
弥夜を押し退けて立ち上がった茉白は、お弁当箱の洗い物を済ませると腕捲りをする。
「少し待ってろ、お礼にうちが作ってやるよ」
「え、まじ? 茉白の手料理が食べられるなんて、これはもう実質結婚だよね?」
「馬鹿かお前は」
「十七歳ならもう結婚出来るよ?」
「そういう話じゃないだろ。余った食材使わせてもらうぞ」
僅か数十分で手際良く作られた料理は、お店で食べるのと遜色ない程の味と盛りつけの美しさであり、弥夜は決して届かない力の差に絶望する事となった。
「手料理また作ってね?」
「うちで良ければ」
片付けを終えてソファで休む二人。先に言葉を切り出したのは弥夜だった。
「あのね? 茉白と別れた後、稀崎さんと会ったの」
「はあ? 何故うちの事を呼びに来なかった」
「戦ってはいないよ、少しお話して来たの」
「あいつに話は通用しない」
「ううん、通用したよ。思ったよりも優しい子だった」
夜羅が妹の親友であった事、妹を殺した者を追っている事、タナトスと呼ばれるテロリスト集団、還し屋の人質が救いの街に囚われている事、その全てが包み隠すこと無く伝えられた。
「粗方の話は解った。別にうちは、お前がどんなを選択をしようと咎めるつもりは無い」
「さっすが私の相方、超優しい」
「それで、これからどうするんだ?」
「野暮だねえ、茉白は。私の口からどうしても言わせたいんだね」
茉白の頬を何度かつつく手は、即座に叩き落とされた。
「救いの街へ乗り込む」
「ただし」と語気を強める弥夜。
「それは私一人で。茉白には此処で留守番してもらう」
「お前が一人で行ってどうなる? 一瞬で殺されて骨すら残らないぞ」
「還し屋の上層部がたくさん居るそうなの。そこ等の能力者とは訳が違う。そんな危険な場所に貴女を連れて行く訳にはいかない。私は茉白を失いたくない」
「それに」と続ける弥夜はソファに深く凭れて後頭部で手を組む。
「戦わずして救うつもり。戦闘になったらまず勝ち目は無いと思った方がいい」
「……うちはお前のなんだ?」
「なんだって、相方だよ?」
「お前は相方を置いていくのか?」
「相方だって認めてくれないじゃん」
フグのように膨張する弥夜を横目に、鼻で笑った茉白は瞑目して口角を上げる。
「別に否定してないだろ」
「え、まじ? 超嬉しい」
「一緒に連れて行け弥夜。お前の事……必ず護ってやるよ」
紅潮を隠すように頬に手を当てる弥夜。少し熱くなっているのか手のひらが熱を帯びた。
「あーん、惚れちゃう依存しちゃう。依存しちゃう依存しちゃう依存しちゃう」
「馬鹿か。夜が明けたらタイムリミットは後五日、急がないと取り返しがつかなくなるぞ」
「それまでに、蠱毒に似た殺し合いが行われなければいいけれどね。明日には向かおう? 隣町の橋から救いの街へは行けるから」
テレビをつける弥夜。そこには相変わらず救いの街の綺麗事が並べられており、皮肉にも美しい海上都市は、今の二人の目には酷く滑稽に映った。
「猶予は無いと思った方がいいな。その辺の奴から車を盗んで向かう」
「今度はマニュアル車はやめてね」
「盗む事に関しては怒らないんだな」
「致し方なし。背に腹は?」
「代えられん」
「はい、よく出来ました」
「……うっざ」
他愛の無いやり取りをする内に夜は更ける。またしても先に寝落ちしたのは弥夜であり、寝室から毛布を取ってきた茉白は起こさないように優しく被せた。
「相方……か」
独りでに紡いだ茉白は、ソファで眠る弥夜の手のひらに視線をやる。刀を握って傷付いていた筈の手のひらには、傷一つ見当たらなかった。
それは、料理をしている弥夜を見た際に感じた違和感の正体。昨日は包丁さえ握れなかった弥夜が、今日は当然のように握っていた。
能力者の傷の治りは一般人と比べると格段に早い。自身が能力者である為にそれを知っている茉白は気付く。
──弥夜は間違い無く能力者であるという事に。
もしも見せたくない理由があるのなら問わない、それが茉白の答えだった。彼女は深く考えに耽っていた事に気付き、意識を現実へと回帰させる。
隣で涎を垂らして眠る弥夜を見、茉白は口角を緩めた。
「どんな夢を見たらそうなるんだよ」
「茉白……?」
唐突に名前を呼ばれた事に驚くも、ただの寝言であった事に気付き胸を撫で下ろす。寝相が悪く体勢を崩した弥夜は、解読不能な寝言を発しながら茉白の肩に凭れ掛かった。
その際に垂れた涎が茉白の制服を濡らす。
「ったく……またかよ」
毒づきながらも嫌な表情は浮かばない。ずれた毛布を掛け直した茉白は、遠慮がちに弥夜に寄り添って目を閉じた。
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