地上へと至った弥夜。未だ降り頻る雨が視界を跨ぐように遮る。傷口に染み入る雨が痛みを思い出させ、前へと進む脚を僅かに鈍らせた。
足枷を付けたように重い両脚。夜羅と別れた場所へ至った弥夜は、周囲を見渡し情報を掻き集める。激しい戦闘が行われたであろう至る箇所の溶解、地に滲むまだ新しい血液。無惨な光景が広がっていた。
「必ず生き残ると約束したもんね。地下へと来なかった事から考えると……」
約束から判断し、弥夜が探し回るのは巨大ビルの入口近辺。同時に不安が湧き上がり、考えたくも無い結末が胸中を蹂躙した。
「そんな訳ないよね……」
自身に言い聞かす。存在の主張を続ける不安を掻き消すように、重い脚が止まること無く動かされた。鼓動が聞こえてしまいそうな程の静寂。未だ止む事の無い雨だけが、そんな重苦しさを幾らか緩和する。
戦闘が行われていた場所には夥しい数の死体が並び、そのどれもが、無惨に身体を溶解させてグロテスクな体内を晒していた。雨と混ざった血が徐々に領域を拡大させている。そんな中で東雲の死体を見付けた弥夜は、激戦を制したのが夜羅である事を悟った。
「夜羅……!!」
見渡しの悪い建物の柱。弥夜は、柱に凭れて意識を失う夜羅を発見し駆け寄る。傷は酷いが、呼吸により胸が小さく上下しており、まだ息がある事が伺えた。
安堵に撫で下ろされる胸。身を寄せた弥夜は、儚くも力強く生き抜いた夜羅の頭を優しく撫でる。大人びたサイドテールは水分を含んで身体に張り付いており、未だ鳴り続ける雷が、二人を笑うように一際強く轟いた。
夜羅の右腕を肩に回し立ち上がる弥夜。必ず生きて帰ろうと、徒歩でありながら救いの街の出口が目指される。
「大丈夫だから、必ず助けるから……私を一人にしないでね……」
建物に身を寄りかからせ、自身を支えながら歩みを進める。壁面にはどちらものか解らない血の跡がこびり付き、二人の傷の深さが代弁されていた。
捲れ上がった道路、折れ倒れた標識、以前通ったであろう景色は見る影もない。そんな過去の栄華を超えて、弥夜はただ生きる為に歩く。静寂に響く雨音。心に染み入る律動的な旋律が、今までの出来事や想い出を無意識に引き摺り出す。
出会いから最期まで。
その全てが刻まれた一枚のフィルムが、脳内で何度も何度も繰り返される。雨音に混じり始めた嗚咽の声。併せて零れ落ちる涙が、静かに地に吸い込まれて有耶無耶に溶けた。
──茉白を殺した。
冷静になって初めて、犯した罪の大きさに気付く。
柊 弥夜。齢十八の少女は、少女らしい声で、顔で、仕草で、暫し歩みながら慟哭し続けた。ふいに、雨と涙で濡れた顔が綻ぶ。意識を取り戻した夜羅が何を言う訳でも無く、弥夜の頭を優しく撫でていた。
「泣かないで下さい」
「夜羅……?」
「その様子だと上手くいったようですね。いや……上手くいってしまったのですね」
無言で頷く弥夜。虚ろな瞳が底知れない悲しみを宿す。手を取った夜羅は「辛い役目を押し付けてすみません」と儚い表情を見せた。
「ううん、背を押してくれてありがとう。私は茉白の相方だから」
全ての経緯を説明した弥夜は建物の壁面に背を預ける。倣った夜羅は、そのままずり落ちるように座り込んだ。
「大丈夫?」
「すみません。東雲は殺しましたが、少し力を使い過ぎました。貴女の方が重症だというのに……私としたら情けないですね」
「ううん、そんなこと無い。情けなくなんかない。生きていてくれてありがとう、約束を守ってくれてありがとう」
「貴女こそ、夜葉の願いを叶えてくれましたね。生きていてくれて本当に良かった」
生き残る気など更々無かったとは言わないでおこうと、夜羅は僅かに口元を緩めた。雨に濡れた衣服が嫌悪感を主張する。「少し休もうか」と吐息をついた弥夜は静かに目を瞑った。
「そうしたいのは山々なのですが、どうやら私達は……どこまでも神様に嫌われているようです」
疎らに集まり始めるタナトスの残党。決してこの街からは逃さないと、犇々と伝わる殺意が肌を撫でる。立ち上がろうと試みた夜羅が体勢を崩して地に屈した。
「此処まで来て死ねるかよ……」
夜羅に手を差し伸べ起こした弥夜は、そのまま壁に凭れ掛けさせる。僅かに痙攣する脚を強く殴り付け律した彼女は、懐にしまい込んでいた蒼白の脇差を取り出した。
「私の武器……? 特別警戒区域アリスで蓮城を道連れにしたあの時……まさか、拾ってくれていたのですか?」
「ずっと一緒に戦ってたの。私を助けてくれたの。大丈夫だよ夜羅、此処は私が切り抜ける」
未だ身体が動く事を不思議に思いながらも凛と立つ弥夜。毒蟲を呼び出す魔力は既に枯渇しており、生身での近接戦闘以外に選択肢は無い。
「すみません」と項垂れる夜羅を励ました弥夜は、激痛の走る身体を無理矢理に振り回して酷使する。気力と想い、それだけが本能を刺激して身体を突き動かした。
「残念だけど東雲は死んだよ。救いの街も終わりだねえ」
周囲の者達に対する低俗な挑発。脇差を構え、視線だけを動かして状況の移り変わりを判断する。この状況下で弥夜の精神は極限にまで研ぎ澄まされていた。
「その身体で生きて帰れるとでも? たかが餓鬼二人に手こずるとはな」
リーダー格と思われる男が周囲に目配せする。その目は語る。端的に、「殺れ」と。
「柊は後だ。動けない稀崎から殺せ」
得物や魔力を高めながら向かい来る者達。歯を食い縛った弥夜は怒りに身を震わせた。
「もしかして私が怖いの?」
夜羅を庇い立つ。残る僅かな魔力を駆使し、たった一本の脇差で状況を掻き回す。振られた刀を掻い潜り、放たれた魔法を切り裂き、的確に心臓を貫いてゆく。
手に伝わる、身体を穿つ柔らかい感触。そんな歪な快楽に酔いしれる暇は無い。即座に引き抜かれた刃が、次々に襲い来る殺意と対峙する。
「夜羅に指一本触れてみろ……殺すぞ!!」
大切な者を失った悲しみが揺り返す。もう誰も失わないと、強い意志の篭った瞳が光を宿し、雨の中を駆けるように尾を引いた。
何度も弾ける得物同士が衝突する金属音。至る所からの攻撃を一人でやり過ごす弥夜は、一瞬の隙をついて命を奪ってゆく。一体何処にそんな力が残っているのかと、周囲の者達は僅かにたじろいだ。
「ねえ、たった一人だよ? さっさと殺してみろよ蛆虫共!!」
まさに蹂躙、死に際の獣の如く身を振り回す弥夜。水分を含み重さを増した髪が顔面へと張り付く。それを掻き分ける事もせず、ただ一心不乱に殺す事のみを考えていた。
順調に数を減らす弥夜は、朦朧とし始める意識の中で目を見開く。自身へと刃を振り下ろす者と、後ろの夜羅へと向かう者。同時に襲い来る死に、恐れること無く迅速な判断を下す。
「腕の一本くらいくれてあげる」
弥夜が選んだのは夜羅を護る事。自身への攻撃から目を逸らし、全力で夜羅の元へと向かう。押し出された脇差は男の脇腹を貫通し、骨すら突き砕いたであろう鈍い音が響き渡った。
全身へと降り掛かる血飛沫。雨により幾らか流れ落ちるものの、こびり付く赤は執拗く存在を主張した。
次いで、後方へと腕を振り上げる弥夜。腕一本を犠牲に隙を突く事を選択するも、本来迸る筈の激痛は訪れない。代わりに、飛来した蒼白の霊魂が男の顔面を溶解させた。
「夜羅……?」
自分よりも夜羅を護る事を選んだ弥夜。それは夜羅も同じであり、我が身を顧みず弥夜を襲う者へと霊魂をぶつけた。
自身を捨てたからこそ、互いに無事だった。
顔面が溶けた事による異臭が蔓延り、浮遊していた霊魂は弱々しく消失。絶命した男の倒れる音だけが雨の中一際大きく響いた。
「全く貴女って人は。先ずは自分の身を心配して下さい。でも……護ってくれてありがとうございます」
片目を細めて苦しげに微笑む夜羅は、最後の力を振り絞ったのか乱れた呼吸を整えていた。
「夜羅こそ。護ってくれてありがとう」
振り返ること無く紡がれる言の葉。彼女の背の逞しさに「後はお願いします」と、夜羅は全てを委ね心を寄り添わせた。
それから僅か数分。
獣の如く鋭い眼光を見せる弥夜は、無我夢中で周囲の者を殺め続けた。血溜まり、死臭、驟雨、そして未だ鳴り止まない雷。混沌とする景色の中で、彼女は確かに生きていた。
崩れ落ちた弥夜を支える夜羅。本来なら立てない筈の身体を律した夜羅は、自分に嘘をつき無理矢理に全身を酷使する。
「柊、体重を私に預けて下さい」
「ごめん……ね……」
「何を言っているのですか。助けられたのは私の方です」
呂律も怪しくなっており、訥々と紡がれる言葉には抑揚すら無い。「今度は私が支えます」と力強く紡いだ夜羅は、身を寄り添わせながらゆっくりと歩みを進めた。
その甲斐もあってか、二人は無事ゲートへと辿り着く。以前、乗り込んで来た能力者により空けられた風穴は、未だその体躯を惜しげも無く晒す。砕け割れたゲートの残骸が、あの頃のまま無造作に散らばっていた。
「夜羅、少しだけ待って」
「どうしました?」
「祈りだけ捧げたい。せめてもの……茉白への手向けに」
ゲートを潜る際、静かに街を振り返る弥夜。その瞳は「此処では色々あり過ぎた」と語る。展開する景色は無惨な光景であり、崩落したビルや建物が過去の栄華を儚げに伝えていた。
「私達は茉白の死の上に生かされた。貴女が望んでくれた以上、私達は何があっても生きなければならない。辛くても泣いても這い蹲っても……生きなければならない」
自分の両脚で地を踏み締め、目を瞑り想いを馳せる。無意識に虚空に伸ばされた手が望む温もりに触れる事は無い。残酷にも雨の冷たさだけが、弱々しい血塗れた手に応えた。
何を言う訳でも無く隣に並んだ夜羅。彼女は弥夜に倣い目を瞑る。
「でもそれは呪縛じゃない。私達は夜葉に恥じないよう前を向いて進むしか無いのです。きっとまた……笑顔になれる日が来ますから」
目を瞑る二人は互いに悟られないよう涙する。いつまでも止まらないのは、きっと雨のせいだ。そう自身を欺きながら。
破滅の街 脱出。
互いに寄り添い支え合いながら、全てを終えた二人はその場を後にした。
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