弥夜を見送った茉白は転送装置に手を当てて崩れ落ちる。蝕む毒が身体の中で意志を主張し、戦闘の傷も相まって意識が朦朧としていた。
今なら自害可能だと、刀身が首筋に添えられる。無機質な冷たさ。研ぎ澄まされた刃の痛み。何もかもが馬鹿らしくなって、茉白は俯いたまま不気味な嗤い声を漏らした。
「く……うぅ……」
だが笑みとは裏腹に、線状の瞳孔を持つ蛇の瞳より涙が零れ落ちた。溢れ出す堪えていた想い。弥夜の前で泣く訳にはいかないと考える、茉白の強さの表れだった。
「ごめんな……弥夜」
刀の柄に力を込めた刹那、幾つも重なり合う足音が響く。入口に向く視線が捉えたのは、地上より降りて来たであろうタナトスの残党だった。
「弥夜の事、こっちから帰らせなくて良かったな」
鉢合わせていたであろう未来を避けられたと、茉白は僅かに胸を撫で下ろした。残党は辺りを包囲すると口々に言葉を紡ぐ。
「負傷しているが久遠 アリスは無事だ」
「柊 弥夜は何処へ行った?」
「通路にもエントランスにも居なかった。恐らく転送装置で逃亡した筈だ」
「追い掛けて殺せ。奴も既に満身創痍だ」
目前で繰り広げられる会話。相槌を打った一人の男が転送装置に近付いた。
「行かせるかよ……」
気力のみで立ち上がった茉白は男を切り裂く。次いで振り抜かれた毒の滴る刀が、転送装置ごと容易く灰へと変えた。
「どういう事だ、久遠 アリスが意志を持っているのか」
「勘違いすんなよ蛆虫共が」
弥夜、お前は一度たりともうちの事を久遠 アリスだと呼ばなかったな。そんな思考を巡らせて口角を緩めた茉白は、顎を引いて臨戦態勢を取る。
「うちは柊 弥夜の相方、夜葉 茉白だ。お前等の求める操り人形じゃない」
此れが最期の戦いになると解っていた。
転送装置は破壊され、残る地上への道はエレベーターのみ。靴底に魔力を集めて跳躍した茉白は、残党が潜って来た入口を塞ぐように凛と立った。
「そこを退け。柊 弥夜を追跡して殺す」
「相方には指一本触れさせない。此処は死んでも通さない……全員殺してやるよ」
誰一人通さないと、身体中を駆け巡る殺意。殺す事だけを目的とし、殺す事だけに力を注ぐ。粘り気のある漆黒の殺意が身体を縁取るように展開した。
夜葉 茉白『生骸化』
暗闇の中で煌めく深紫の蛇瞳。尾を引くネオンが、右に左にと不規則に揺らぐ。立っているのが不自然な程の傷。それでも茉白は、殺意に引き摺られるようにして立ち続けていた。
「その身体で何が出来る? 無様に這い蹲って終いだな」
「やってみろよ糞共」
一本の刀が水平に持ち上げられる。肩から螺旋を描くように巻き付いた蛇が刀を飲み込み、刀身が黒く塗り潰された。一切の介入余地の無い漆黒。粘り気のある猛毒は、同時に悲しい冷たさを宿していた。
「『全還する黯毒の輪廻』」
久遠 アリスの力をもモノにした茉白。意志ごと裏返りそうになる感覚に抗いながらも、自我を失うこと無く、しっかりと前が見据えられた。
「あくまで抗うか、夜葉 茉白」
「さっさと来いよ。うちを殺れば弥夜に追い付けるかもな」
明白な苛立ちを露にする男は刀を具現化させ、手中で華麗に捌いて見せた。
刹那、消失する茉白の姿。ぶれた眼光が尾を引き消え入る中、僅かな風の揺れだけが男の肌を撫でた。気配は右側面。薙がれた刀は見当違いの方向へと軌道を描く。
それもその筈。役目を果たすこと無く舞った男の腕が、刀を握ったままで地に落ちた。まさに圧倒的。競り合いすらも生じない。
続けて抉るように裂けた胴体が、男に生という事象を容易く諦めさせた。制御が効かず後方へと傾く身体。僅かに開かれた瞳が、虚空を揺蕩う黒い雪を捉える。
──美しい。
皮肉にも、男の抱いた感情だった。
能力者にのみ作用する猛毒の黒い雪。
使役するは、紛れも無い茉白。
たった一人の術者を除き、辺りを囲んでいた者達は絶命する。黒い雪を受けた身体はどす黒く変色。血の流れが止まり壊死したのか、独りでに四肢が千切れ落ちた。辺りは地獄絵図、それでいて声を発する事すら赦されない。
唐突な死が、美しくも艶やかな黒雪により齎された。その中心部で佇む茉白は視覚化していた殺意を消失させる。仰がれた虚空を泳ぐ視線。何かを思考したのか、血濡れた頬を一筋の雫が伝う。
「明けない夜は無いんだったな……弥夜」
煙草を咥えた茉白。肺を満たす煙がいつもよりも苦く感じられる。そのまま刀の柄を逆手に持ち、腕を目一杯に前へと伸ばす。柄部分で重なる両手が僅かに震えていた。
──夜葉 茉白、堕つ。
それは一つの物語の終着点。華奢な身体を穿った刀は、哭くような金属音を奏でて地に落ちる。未だ宙を泳ぐ紫煙が、名残惜しそうに静かに消え入った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!