「そういえば、此処は何処?」
「知るか」
我に返り焦った様子で辺りを見回す弥夜は、見慣れない景色に辟易する。見た事も無い景色に、僅かに鼓動が高鳴った。
「だよねえ、適当に車を走らせたもんねえ」
「お前がな」
「逃げる為には致し方なし。背に腹は?」
「代えられん」
「はい、よく出来ました」
「……うっざ」
灰色に舗装された道路を宛もなく歩む弥夜。響く靴音は、茉白が後ろに続いた事により二つに増える。しばらく無言で歩き続ける二人の間には、水たまりを踏む際の音だけが何度も木霊した。
「おい」
弥夜の背に呼び掛けた茉白。だが、返事は無い。
「おい、聞いてんのか」
無言。降り頻る雨は、未だ止まず。
「この距離で聞こえない訳がないだろ」
尚も、意味を成すこと無く虚しく消え入る言の葉。大きな舌打ちをした茉白は、何かを諦めたように息を吐き出す。
「……弥夜」
「ん? なあに? 何度も呼び掛けてどうしたの茉白」
「聞こえてんじゃねえか、鬱陶しい」
墓穴を掘っと言わんばかりに、手に口が添えられた。
「初めて名前を呼んでくれたね」
「お前が呼ばせたんだろ」
嬉しさを象徴する満面の笑みに、茉白はバツの悪そうな顔で目を逸らす。
「それで? 何処へ行くつもりだ」
「とりあえず、何処か泊まる場所を探そう。買い物って言ったけれど、色々あり過ぎて疲れちゃった」
「なら、お前の護衛は終わりだな」
背を向けた茉白は続ける。
「これで解っただろ? うちと一緒に居れば、厄介事に巻き込まれ死期を早める」
「うん、解った」
黒いメッシュの入った銀髪が雨に濡れ、茉白の表情を覆い隠した。逆方向へと踏み出した彼女は、自身の腕が背後から掴まれた事に気付く。
「それで? だからどうしたの? 危なくなれば私を放って逃げればいい」
「……離せ」
腕を振り解こうと試みた茉白は、更に強い力で掴まれた事に苛立ちを見せる。
「一緒に来てくれようと悩んでくれたんでしょ? 私に何処へ行くか聞いてくれたもんね」
「お前は馬鹿か。買い物と答えたら護衛の続きをするつもりだっただけだ」
「じゃあ買い物」
「嘘つけ」
「嘘かどうかはついた本人にしか解らない。つまり今この場において、貴女がそれを判断する事は出来ない」
「くっだらねえ屁理屈だな」
「そう?」と戯けた弥夜は腕を引いて茉白を振り返らせると、胸元に預かっていたぬいぐるみを優しく預けた。
「ほら、ぬいぐるみちゃんも茉白と一緒に居たいってさ」
「ネーミングセンス皆無だな」
抱き締められた熊のぬいぐるみ。柔らかい綿の感触を肌に感じ、茉白は無意識に口角を緩める。
「くれた子供に、ぬいぐるみなんて要らねえだとか何とか言おうとしていたくせに、結構お気に入りじゃん」
口元に手を当てて含み笑いをする弥夜。舐め回すような視線に気付いた茉白は、即座に表情を是正した。そして何かを思い付いたのか、揶揄うような笑みを浮かべる。
「もしかしてぬいぐるみに妬いてんのか?」
「うん、妬いてる」
予想外の切り返しに頬を紅潮させたのは茉白の方であり、即座に視線が逸らされた。
「何? 歳上の私を揶揄おうとしたの?」
「知るか」
「笑顔、素敵だったよ。これからも……どうか笑っていられる世界でありますように」
続く追撃に舌打ちをする茉白。舌戦では弥夜に軍配が上がった。
「とりあえず行こうか、風邪を引いたら困るしね」
「馬鹿は風邪なんて引かないだろ」
「馬鹿って言う方が馬鹿だもん」
二人は傘もささずに降り頻る雨の中を歩き、静かにその場を後にする。「歩くの早くない?」と弥夜に言われた事を思い出した茉白は、悟られないようにそっと歩幅を合わせた。
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