「竜!」
気が付くと、枯れ果てた湖の真ん中に立っていた。姫の声が、一番に耳に届いた。
森の傍で、ぽろぽろと白露をこぼす姫が目に入った。
帰ってきた。竜は小さく息をついた。
「いやぁ、びっくりしたぜ。いきなり水がドバァーッて、真ん中に吸い込まれていったと思ったら、お前が立ってんだもんな!」
「斎王くんの体に、吸い込まれていったように見えました。蒼龍の力を得ることができたのですね」
二人が竜に近づいて、口々に言葉をかける。
だが、耳が、変だ。触れるほど近くにいるのに、遠く聞こえる。
言葉の途中途中で、耳の奥が、コポコポ、と鳴る。
音は次第に大きくなり―蒼龍の声が、聞こえた。
――アイツ ダナ、オニガミ ハ。
水面のように揺らめく瞳が、自分の意思とは別に、勝手に、姫を捉えた。
竜の様子がおかしいことに、四人は気付いた。ここに、戦うべき対象はいないはずだ。それなのに、こめかみから角が伸び、右手には青い刀が握られている。刀も、いつもと違う。白い煙が、青い刃に巻き付いて、揺れている。
竜の体はいつのまにか、疾風のごとく飛び出していた。姫に向かって、まっすぐに。
「斎王くん!」
雫が叫んだ時にはもう、青い刃は、地に膝をつく姫に向かって振り下ろされていた。
その瞬間、刃を、透明な花が包んだ。
咄嗟に振り上げた姫の右腕から、力が発動されたのだ。
あまりの衝撃に、姫に抱きしめられていた陽は、ころころと転がった。
姫の震える右腕が、迫り来る刃に抵抗する。少しずつ、透明の花が押し返す。押し返しながら、足を地に着き、立ち上がる。
だが、姫の体が完全に立ち上がった途端、透明の花が、儚く弾け割れた。反動で、互いの体が後方に吹き飛ぶ。
仰向けに倒れた竜の手から、青い刀が離れた。竜は、蒼龍の力を制御しようとするが、思うように体が動かない。力んだ手のひらで地面を握るばかりだ。
そして姫は――大木に背中を打ち付ける寸前で、どこからともなく現れた、ひび割れた黒仮面の子どもに抱きとめられていた。
ぽつぽつと雨が降ってきた。森の暗闇に紛れて、姫を囲う五つの黒仮面が浮かび上がる。
「神宮団……!」
光が、ギリッと牙を鳴らした。
姫を囲う五人と、姫の体を支えていたメイゲツは、姫に向かって片膝をつき、恭しく低頭した。
「お迎えにあがりました。――鬼神様」
シグレの声に、三人の視線は一斉に姫に集まった。
ゆっくりと顔を上げた姫は、額から伸びたつるのような美しい角を黒く変色した髪に飾り、瞳を赤く、妖しく咲き乱らせていた。
笑顔。だが、いつもの優しい微笑みではない。ゆがんだ狂気がにじみ出ている。
「今度は、ちょうど良い時頃に迎えに来られたな」
彼女は褒美でも与えるように、自らの右手中指の石をシグレの唇に当て、口づけさせた。
「光栄でございます。我が存在は、我が主のために」
――我が存在は、我が主のために。
五人の黒仮面の復唱が、低く、闇に沈む。
困惑と絶望に墜ちた少年たちの顔など目もくれず、彼女は竜に向けて右手をすっと伸ばした。
中指の石が花開き、一片の花びらが赤い大蛇と化す。大蛇はするりと伸びて、竜の首に巻き付くと、竜の体を軽々引きずり、鬼神のもとへ運んでいく。
雫も光も、竜を解放しようと身を乗り出しはした。しかし、筋肉が固まって、うまく体が動かない。
雫は、シグレの力によるものだと気付いていた。この雨に、麻痺の薬が仕込まれているのだ。だが、脱け出す方法を知らない。思案を巡らせるも、すでに竜は鬼神の足元で、白い指に髪を掴まれていた。
「よく見ているがいい。自分の愛する女を守れなかったさまを。この女が、絶望に墜ちていくさまを」
竜の瞳が黒く、怒りに満ちる。鬼神は冷笑すると、竜を投げ捨て、立ち上がった。
「鬼神様。この蒼龍刀の男は、私が処分いたしましょうか」
髪を一つに丸くまとめた黒仮面が勇み立つ。鬼神は、「よい」と制した。
「この男の魂には絶望を刻まねば気が済まぬ。この女が世界を滅ぼし、自らを責める姿を目の当たりにさせるまで、生かしておけ」
その言葉を最後に、姫の姿は消えた。
霞に溶けゆく、黒仮面とともに。
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