雫は、物心ついた時から鬼人の力に目覚めていた。
母と、大病院の次期院長である父は、ただの人間だった。当時、鬼人は、災厄を運ぶものとして、人間に忌み嫌われていた。たいていの鬼人は、力が目覚めた途端に人間の親に捨てられ、施設に預けられた。道端に転がって死を待つ―そういう鬼人さえいる時代だった。
だが、雫は施設に預けられなかった。両親の間には雫しか子どもができず、その上、世間体を何よりも気にする家柄だったのだ。
両親は、雫をただの跡取りの道具としか見ていなかった。おぞましい化け物を飼うかのように、雫を鍵のかかった部屋に閉じ込め、夜になると、私有地である裏の森に捨てた。家と森とは鉄柵で隔てられていて、鎖状の鍵がかけられていた。朝になるまで、鍵は開けてもらえなかった。
雫は毎夜、雨の日も、雪の日も、熱の日も、森の中で過ごした。小さな生き物たちの魂を集めてテントにしたり、かじりついてくる鼠のような鬼の魂を抜いて難を逃れたり、時には獰猛な鬼に追いかけられ、傷だらけになったりする日々を繰り返した。
生きたいという意志はない。ただ、本能的に生き延びてしまっただけだった。
七歳になると、江戸市随一の名門学園の初等部に入学することが決まっていた。やがて大人になった時にしっかり跡を継げるように。
右手の中指に絆創膏を貼って赤い石を隠していたが、頭のいい級友たちは雫が鬼人であることに気付き、近づこうとはしなかった。
両親の仕打ちも、級友の仕打ちも、皆が自分を見る目も、どうも思わない。雫の心と頭は、動くことを知らなかった。
二年生に進級しても生活は変わらなかった。
だが、ある秋の日。
雫は、一つの物語に出会った。
レオ・レオニの『スイミー』である。
真っ赤な体の仲間の中で、唯一黒い体を持つ小さな魚、スイミー。ある日大きなマグロが彼の仲間を一匹残らず食べてしまう。生き残ったスイミーは絶望の中で、様々な海の生き物に出会い、元気を取り戻していく。放浪の果てに仲間に似た赤い魚の群れを見つけて喜ぶスイミー。しかし群れは、大きな魚を怖がって岩かげから出てこない。スイミーは彼らを励まし、全員で大きな魚の形を作る。ただ一匹、真っ黒な体のスイミーは、魚の目の役を買って出た。そして彼らは大きな魚を追い払ったのだった。
雫の胸は、ドキドキした。国語の時間、全員で声を出して読む中で、一人、声がでてこなくなった。
――どうしてドキドキするのだろう。
雫は何度も何度も、『スイミー』を読み返した。
仲間を失い、ひとりぼっちになるスイミー。
様々なものを見て、絶望から希望へのぼっていくスイミー。
勇敢に戦い、平和を勝ち取ったスイミー。
自らの違いをものともせず、強く生きるスイミー。
違った色のドキドキが心の中で弾けた。
やがて雫は、ドキドキすることが楽しくなった。物語を次から次へと手に取り、心を動かす。
次第に、物語について「どうして」と繰り返し考える中で、頭も動き始めた。
ドキドキが、感情であることを知った。
うれしい、かなしい、たのしい、つらい――。
自分のどんなドキドキが、どんな感情にあたるのか、だんだんと分類できるようになった。
どういう時に、どうドキドキしているのか、分析できるようになった。
そして、気付いた。
森の中にいる時は、つらい。
鬼が襲って来ることが、つらい。
怪我をすることが、つらい。
だから、鬼と戦う。魂を抜き取って、殺す。
そうすると、つらくなくなる。
雨の中、雪の中、熱の中、つらい。
くるしくて、つらい。
さみしくて、つらい。
こわくて、つらい。
どうすると、つらくなくなる?
雫が自らの力を使って鉄柵の鎖を壊すことなど、もはや、造作もなかった。
雫は、学校で、家で、物語を読みふけった。
もう、夜は森に行かなくていい。一睡もせず、乾いた喉を潤すように、物語を次々と飲み干した。
それから三日後の晩。家のチャイムが鳴った。はじめは何の音なのか分からなかったが、ノックの音がして、気付いた。学校で、教務室に入る時と同じ動作だ。誰かが、家に入りたいと合図をしている。
雫は何も考えず、扉を開けた。
そこにいたのは、老爺だった。黒い仮面をつけ、真っ黒な布を身にまとっている。しわくちゃな、枯れ枝のような手で杖を握り、丸く曲がった背骨を支えていた。今にも、ぽっきり折れてしまいそうだった。仮面を取ったら、ちょうど今読んでいるファンタジー小説の魔法使いとそっくりなのだろうな、と思った。なんだか、甘い香りがした。
「こんばんは、ぼうや。私は、ずっと観ていましたよ。毎日毎日、森で過ごしていたでしょう。さみしかったでしょう、つらかったでしょう。ですがここ三日、あなたの姿が見えなかったので、つい来てしまったのです。……おや、何かにおいがしますね。人間の肉が、腐っているような」
雫は、なんだかとても難しいことを言われている気がして、首を傾げた。老爺は、「入っていいですか」と確認の言葉だけかけると、ぼんやり目だけ開けている雫の脇を通って、中に入っていった。雫はなんとなく、老爺の後ろについていった。
玄関の奥のリビングに、腐りかけた肉体が転がっていた。
「これは、あなたの両親ですか」
「リョウシン……」
「お父さんと、お母さんですか」
「はい……」
「なるほど。あなたの力で、魂を抜いたのですね」
テーブルの上に置かれた、いびつな形の黒い石を見て、老爺は口が裂けるほどの笑みを浮かべた。
「ああ……やはり、あなたは素晴らしい。極上の才能を持っています」
老爺は父親の体に触れると、「私があなたの父になりましょう」と言った。
「私があなたを、大切に、大切に育ててあげましょう。そして、あなたの願いを―この世界を恨み、破壊したいという願いを、叶えさせてあげましょう」
その日から、雫は父親の皮を被った彼と暮らすようになった。母親と老爺の抜け殻は彼が片付けたらしく、いつのまにかきれいになくなっていた。
彼は、名をシグレと言った。
見た目が父親の姿になったとはいえ、父親をお父さんと呼んだことのない雫は、彼を「シグレさん」と呼んだ。
夜になると、山奥の古い屋敷に連れて行かれた。そこは、大正時代の美しい洋館だった。黒く重たい石で固められた外壁は、とても冷たく見えた。赤を基調とした室内には、高級な家具や食器が並び、赤い花の模様のランプが飾られていた。窓や扉のアーチにも、赤い花の模様のステンドグラスが装飾されていた。
講堂らしき部屋を覗くと、一番奥に、黒い着物をまとう女性が描かれた、巨大なステンドグラスが飾られていた。そして、シグレと同じように、黒い服と仮面を身に付ける人たちがいた。ステンドグラスに向かって片膝をつき、声を揃えて、同じ言葉を繰り返し唱えている。
我が存在は、我が主のために――と。
皆、世間から疎まれ、恨みを募らせ、世界の破滅を望む鬼人たちなのだとシグレは言った。
雫は、黒装束と黒い仮面を与えられ、神宮団に入団した。
神宮団では、それぞれの団員が、それぞれの役割を担っていた。まだ幼い子どもたちに力の扱い方を教える者たち、鬼神の魂を探し求める者たち、陰陽師を暗殺する者たち、鬼や鬼人を殺し、自らの右手中指の宝石を花咲かせようとする者たち。
雫だけは、団長であるシグレから、毎晩さまざまな教えを受けていた。鬼神の思想、信仰の基本、鬼や鬼人の基本知識、鬼人の力の使い方や、戦略の立て方、戦闘向きの身のこなし方、催眠の方法、上手に世を渡りながら隠れるための処世術。
やがて、雫はシグレに聞いた。
「僕はこれから、ここでどんな役割をもらえるのでしょうか」
シグレは、やさしく微笑んだ。
「あなたは神宮団の、鬼神様の悲願を叶える鍵となる、特別な役割を担ってもらうと決まっています。これは、その時までしっかりと生き、その役割を果たすための準備です。心して励んでください」
黒く、小さな魚が、心の中で泳いだ。
物語で心を耕し、知能も見違えるほどに伸び、一人前に信仰の言葉を扱えるようになった少年は、目にも止まらぬ速さで、幹部に位置づく地位を築いていた。各隊が手こずると作戦を与え、または自ら先導して必ず成果を上げさせた。
――僕は、この群れの黒い目になれている。
そんな自信が嬉しくて、雫はますます成長を続けていった。
シグレは、鬼神の復活を遂げるその日まで雫を大切に生かしておくつもりではあったが、この程度の戦闘で雫が敗北するはずがないと、自由にさせていた。
そして、雫が望むものは全て与えた。雫が興味を持った古書の読み方を教え、授業参観も学校行事も、かかさず足を運んだ。
雫はふと、シグレのすすめで写真に変え、ロケットに閉じ込めていた父母の魂を眺めて、数年前の自分を振り返った。
心が空っぽで、本能だけで動いていたかつての自分。
何も感じていなかったが、あの頃の自分は絶望の底にいた。
だが、今は、希望の中にいる。
あの黒い魚のように、役割を得て、様々な物語やシグレと出会い、心を動かしながら。
――ああ、素晴らしい。生きていて、本当に良かった。
嬉しさが体中に広がって、雫は生まれてはじめて、涙を流した。
迷いが出たのは、中等部に上がったばかりの頃――ちょうど、鬼神の魂を宿した女が見つかった頃だった。
鬼神と呼ばれた女は、もうすぐ魂の灯火が消えてしまいそうな老婆だった。一人で立つことはおろか、食べることも、話すこともできない。それでいて目だけはぎらぎらと、憎しみの色で燃えている。白髪の骸骨のような風貌に似合わない、真っ赤なベッドにいつも横たわっていた。
日に日に、神宮団の団員は少なくなっていった。陰陽師との戦いで敗北が続いているせいもあった。だがそれよりも、鬼神が団員を喰べた数の方が遥かに多かった。
団員が減っても、シグレは嬉々としていた。
「まもなく、あなたが真の役割を果たす時が訪れます。陰陽師の奴らも鬱陶しいですが、それらに負ける程度の団員など不要です。あなたはもう陰陽道の件には関わらず、あなた自身の身を案じて過ごしなさい」
どんな役割か。それは聞かずとも、なんとなく分かっていた。鬼神の復活に必要な鬼の魂を、ありったけ集めるという役割だ。
やがて、団員たちが喰べられて、シグレと二人きりになったら、自分の力は使われるのだろう。
そうしたら、この世界は滅びるのだ。
それは、どんな光景だろう。
人間や動物は当然いないだろうし、家も、草も、木も、水も、何もかもなくなり、乾いた土と風と空だけになってしまうのだろうか。または、土も風も空もなく、地球が丸ごと消えてしまうのだろうか。
今まで何百と本を読んだが、滅んだ世界の姿は、どこにもはっきり書かれていなかった。
「シグレさんは、世界が滅んだら、どんな景色になると思いますか?」
朝食のホットケーキを切りながら、雫が尋ねた。
シグレはメープルシロップをたっぷり浸したホットケーキを口に含み、じっと目をつむると、熱い紅茶をすすった。それから、にこりと微笑んだ。
「それは、私たちのような者が想像しうるものではありません。全ては鬼神様の理想通りになるのですから」
「そう、ですね。……では、シグレさんは、鬼神様のためという理由以外に、世界を滅ぼしたい理由が何かあるのですか」
「いいえ。鬼神様の悲願を果たすこと。それだけです。そのために私は、四七〇年生きてきたのですから」
シグレは、「早くお食べなさい。遅れますよ」と促した。もたもたしていると、八時の「誓いの時間」に遅れてしまう。その後の予定も、遅れてしまう。
この日は休日。二人で本屋に行き、雫の新しい本を買った後、ランチをしてから帰宅し、雫の読み散らかした本を整理することになっていた。いつもの休日の過ごし方だ。
だが、時計を見ると、まだ七時半だった。雫は、「大丈夫ですよ」と答えると、切りっぱなしのまま放置していたホットケーキをフォークで刺し、ぐったりした生地をナイフで支えた。冷め始めたホットケーキは、溶けたバターが絡まり、シロップが生地に染み込んでいた。口の中に押し込むと、甘さがどろりととろけた。
「シグレさんは、今の生活、幸せですか」
シグレが、最後の一口を飲み込んだ。喉がごくりと波打ったのが見えた。
「さあ。幸せという概念は、そもそも鬼にはないのかもしれませんね。鬼神様の悲願さえ達成できれば、もしかするとそういった気持ちも生まれるのかもしれませんが」
シグレは、雫の紅茶に角砂糖を二つと、たっぷりのミルクを入れて、くるくるかきまぜた。
「退行……赤ちゃん返り、というやつですか」
「違います。気になっただけです」
勝手に甘くされた紅茶を押し返し、シグレの飲みかけを引き寄せた。
それからというもの、雫の迷いを感じ取ったのだろう、シグレはことあるごとに、なぜ世界が滅びるべきかを説いた。人間は自分勝手で、自分たちこそが至高の存在だと位置づける。鬼人も、鬼も動物も、人間のいいままに扱われ、不幸ばかりが降ってくる。たしかに、雫もそうだった。
それでも――。
積めなくなって床に散らばった本たちを見て、雫は思った。
人間も、不幸なのだ。だから、こんなにたくさんの物語が生まれた。
不幸の重さは違っても、生き物には平等に不幸が降る。そして、不幸があるから、幸福が生まれる。
幸福を集めることは、真夜中の砂浜で貝殻を探し集めるくらい、稀で、途方もないけれど。
それでも、見つけた時の心のきらめきは、何にも代えられないほど美しい。
不幸のあとの幸福、絶望のあとの希望。
美しさであふれるこの世界の滅亡を、雫は恐れるようになっていった。
雫が中学二年生になった時、神宮団はたったの六人になっていた。鬼神の魂を宿した老婆は、意識を失うことが多くなっていた。呼吸器をつけて、なんとか息を保っていた。
シグレは、蒼龍討伐で不在のメイゲツを抜いた四人を集めて、これからの話をした。
「力は少しお戻りになったようなのですが……残念ながら、この体では動くこともかなわないようですね。他の体にお移りになる体力も残っていらっしゃらない。生まれ変わりになられる時を待つのが良いでしょう。今までの傾向から見ると、鬼神様が生まれ変わるのはおよそ三十年後。それまで、あなた方には凍結していただきましょう。万が一、途中で命が尽きてはもったいない」
雫以外の三人は、力を蓄え、右手中指の石の蕾が今にも咲かんと膨らんでいる、鬼神への捧げ物たちであった。彼らは、素直にうなずいた。
シグレが両手を大きく、空に掲げようとした―その時。
雫は思わず、彼の左袖を掴んでいた。
当たり前の日常、それでもこの上なく幸せな日常が――世界が、終わってしまう。
心の中の黒い魚が、反対の方向に向き直るのを感じた。
――僕が目になろう。
魚の台詞が、雫の決意に変わった。
「僕は、できない……! この日常を、世界を、失うことなんて……!」
シグレは、雫の手を振り払い、左手で、雫の首を掴んだ。軽々と、発達途上の体が持ち上がる。
必死に抵抗しようと両手でシグレの左手を掴むが、びくともしない。首筋がちぎれそうだ。頸動脈が詰まって、頭が熱くなる。かろうじて鼻で息をして、かすむ視界にシグレを映す。
「あなたの残忍さを気に入って、今まで大切に育て過ぎました。まさか、無駄な自我が芽生えるなんて。三十年、頭を冷やしなさい」
仮面の中から、霧雨が降ってきた。顔が雨に包まれ、溺れてしまうと思った矢先、体中が溶けていくような感覚に飲まれていった。
黒い仮面の中に肉体ごと封印する術。それが、「凍結」というものだったのだろう。
目が覚めると、黄ばんだ古い天井が見えた。
見覚えがある気がしたが、ぼんやりとして思い出せない。
「おはようございます」
体を起こし、声の方を振り返ると、長い髪の青年が、破れた赤いソファに腰かけていた。雫より、三、四歳ほど年上のように見えた。ちょうど、骨ばった白い右手で、カップを持ち上げるところだった。
話し口調と不敵な表情、紅茶をすする優雅な仕草で、彼がシグレであることが分かった。そして、赤い花の装飾が施されたランプやステンドグラスを見て、ここが神宮団の本部であること、凍結されて三十年経ったことが分かってきた。
雫の父親は、五十を超えていた。三十年経って、古くなった体を捨て、またどこかから体を拾ってきたのだろう。妥当なことだ。
それでも。
雫が必死に握っていた、シグレと自分を結ぶ糸が、ぷつんと切れる音がした。
やけにあっさりと。そして、はっきりと。
雫は、立ち上がった。
シグレは向かいに空のカップを置き、紅茶を注いだ。だが、雫は、座らなかった。
見慣れないシグレの横顔を、静かに見据えた。
「僕の心は、三十年前に伝えた、あの時のままです。僕は、世界を滅ぼすことはできない。その手伝いをすることも、できません」
シグレは雫を目にすることなく、熱い紅茶を喉の奥に流しこんだ。長い髪がパラパラと崩れ、細い首すじが覗く。
「そうですか。残念ですが、仕方がありませんね。あなたの力は惜しいですが、こうなってしまったのも、私の育て方が悪かったからでしょう。好きになさい。世界に絶望したら、また戻ってくればいい」
「戻りません。僕は、あなたを止めます」
「止まりませんよ。鬼神様は再び、この世界にご降臨していらっしゃるはず。あとはお姿を探し求め、我々を捧げるだけ。あなたはどこかに隠れて、この世界と一緒に滅びてしまいなさい」
雫はこぶしをぎゅっと握りしめた。屋敷を飛び出して、変わってしまった街を無我夢中で歩く。
家は、跡形もなく取り壊されていた。まっさらな砂地を見て、やっと力が抜けた。手のひらに爪が食い込み、真っ赤になっていた。
あの時手に入れた幸せな世界は、もう、なくなってしまった。
虚しくて、痛くて、苦しくて――。
雫は、二度目の涙を流した。
だが、生きていれば、世界があれば、この胸の痛みに勝る幸せが、きっと、再びやって来る。
雫は今一度、心の魚に、世界の滅亡を止めることを誓った。
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