十六時。姫は一人、友人たちとのカラオケ大会を抜けた。新武蔵駅から電車に乗り、武蔵駅で降りる。
ホームを出ると、目の前のベンチに、陽が座っていた。姫に気付くと、満面の笑顔を咲かせて、大きく手を振った。姫はほっとして、駆け寄った。
「久しぶり! テストお疲れ!」
「久しぶり。陽、髪切ったのね。すごくいいわ」
二人が会うのは、五月二十二日の一年記念日のデート以来、三週間ぶりだった。陽の高校のテストが六月上旬にあり、その一週間後に姫の高校のテストがあったので、互いに勉強漬けで会えなかったのだ。それまでは二日か三日に一回は、こうやって最寄り駅で待ち合わせて会っていたので、三週間も会えなかったのは、陽の心にこたえた。メッセージでやりとりはしていたが、会いたくて会いたくてたまらなかった。
陽は、姫の手を強く握りしめた。
二人が住む地域は、スーパーとコンビニばかりで、新武蔵駅のように、きれいなカフェもカラオケもない。帰り道のデートスポットは、駅から十分ほどの、陽の家だ。
「お邪魔します」
玄関で声をかける。決まって返事はない。奥の道場で、陰陽道の稽古をしている音が聞こえてくる。姫と陽に気を使って、わざと聞こえないふりをしているのだろう。
二人は、縁側に座った。さっきまで湿った曇り空だったのに、切れ切れな雲の隙間から、橙色が燃えている。
陽は、姫と指を絡めた。右肩を、小さな左肩にくっつける。
「会いたかった」
「私も」
「去年の夏は最高だったな、毎日一緒にいられてさ」
「その分色々大変だったじゃない」
「でも、姫といられたから、最高に幸せだったよ。また猫になろっかな」
「いくら陰陽術が上達したからって、変なこと言わないで。皆、大変だったんだから」
「じゃあ……膝枕して」
姫が「えっ」と戸惑う隙に、陽はそそくさと姫の膝に右耳を乗せる。
「はぁ、幸せ。猫だった時は、毎日こうしていられたのになぁ。やっぱ猫になりたい」
「やだ! もし、おじいさんたちが来たら……」
「姫が来てる間は出てこないから大丈夫」
去年の夏に思う存分浸った、姫の香りがする。甘くて、温かくて、やさしい、花みたいな香りだ。
しかし――思い切ってやってみたものの、その香りと、膝の温もりややわらかさを人間の肌身で感じるのは、とんでもなくドキドキした。頬をくっつけているつもりで、微妙に一ミリくらい、浮かせていた。とても体重をかけられない。それに、体が、どくんどくんと鼓動で揺れているのが、姫にまる見えになっているのではないかと思うと、恥ずかしい気持ちもこみ上げる。
目をつむると、心いっぱいにドキドキを感じた。こんなに幸せな感情で体が満たされていることが、何にも代えられない素晴らしいことに思えた。
「姫といると、生きててよかったって思う。大袈裟だけど」
「ほんと。でも、嬉しい」
二つ呼吸をして、そっと、一ミリの隙間を埋めてみた。
――ああ。姫が、好きだな。
このままずっと、一緒にいたい。
じんわりと、そう思った。
烏の声が、遠くで聞こえる。
ふと、姫と目を合わせたくなって、頬を入れ替え、目を上げた。
姫は――黒い雲の隙間から覗く橙の奥へ、一生懸命に目を凝らしていた。
何かを、探すように。何かを、想うように。
――だめだ。
何がだめなのか。陽自身にも分からない。ただ、そんな言葉が浮かんだ。なよ竹のかぐや姫のように、どこか遠くへ、姫が離れて行ってしまうような気がした。
捕まえておかなくては。
体を起こして、左腕を引き寄せる。
目の前の森が、ざわりと音を立てた。
音がだんだんと小さくなって、二人はゆっくり、唇を離した。
「ごめん、急に……」
姫は、ふふっと声を漏らすと、「やっぱり陽といると、すごくドキドキする」と言った。両手で鼻と唇を覆う。真っ赤に染まった顔を隠す、姫のいつもの癖だ。
空は紺色に染まり、橙の隙間はどこかへ消えていた。
陽は、姫の隣に座り直して、自分の両手の指を絡めた。もぞもぞ動かして、指と指の隙間の汗を、手のひらの汗を、互いの手で拭う。
「なんかさ……思ったより、違う学校って、不安なものだな」
会いたくても、すぐに会えない。会えない間に、誰と話しているかも分からない。もしかしたら、その誰かに、少しでも心惹かれていたりするかもしれない。傍にいないからこそ、相手の周りにいる人間の顔が分からないからこそ、あらぬ妄想をしてしまう。信じたいのに、不安が妄想を膨らませる。
「私も、不安よ。陽っていろんな人と仲良くなれるから、誰かが陽のこと好きになっちゃったらどうしよう」
「それはない! っていうか、光さんが俺んとこにしょっちゅう来てさ。光さん、チャラいし怖いから、俺までやばい奴だと思われちゃってるみたいで、女子が怖がって去っていくんだよな。そういうわけで、俺今、女友達一人もいない」
「それは、光さんに感謝しないとね」
姫は、屈託なく笑った。
かくいう姫は、入学当初から何人かの男子から告白をされたと聞く。二人で話し合って、そういうことがあったら、隠さないで伝え合うことにしている。報告を受けると、もやっとはするが、隠されているよりずっといい。隠しごとをして、胸に罪悪感や不安を抱えたまま一緒にいたら、すぐに分かる。そして、悲しくなる。さみしくなる。ひとりぼっちになってしまったかのように。
姫も、それは分かっているはずだ。だから、何も言わないのは、最近は告白をされていない、ということだろう。何も秘密にしていることはない、ということだろう。
それでも陽の心には、ひとりぼっちになってしまうような不安が胸に渦巻いていた。
今、捕まえたはずなのに。どうしても、不安が拭えない。
陽は手をほどいて、ズボンを握った。汗が、黒いズボンに染みていく。
カラカラになった喉を開いて、姫を覗き込む。
「……斎王と、何も……ないよね?」
姫は、二度、瞬きをした。上唇が少しだけ開いた。
目をそらして、うつむいて。
そして姫は、「ごめんね」と小さくつぶやいた。
「いつも、陽に心配かけちゃって」
「何か、あったのか?」
「ないわ。でも……」
姫は、小さなため息をついた。かすかに肩が揺れる。後ろ髪がはらりと、姫の顔を隠す。
「竜に、ちゃんと言おうかなって、思ってるの……」
「何を……?」
「……距離を、おきたいって」
陽は、ごくんと唾を飲んだ。自分の喉の音が耳に響いた。
リビングの電気が、やけに白く、二人の背中を照らす。
顔を上げた姫の瞳は、白い輝きがきらきらと揺れていた。
「私は、陽が好き。陽と一緒に、いたいから」
陽は、左手を伸ばした。姫の右頬を引き寄せる。
二人はもう一度、長いキスをした。
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