戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月16日(金) 20:00
文字数:2,127

 鳥のさえずりで目が覚めた。見慣れた白い天井。左頬には、やわらかな黒い温もりが寄り添っている。そして、右手がとても熱い。

 首を起こして見ると、竜が姫の右手を固く握って、ベッドに顔を伏せ、眠っていた。

 ぼんやりと、昨日の記憶のかけらを集めていく。


 雫、彩、屋台、悲鳴、暑くて暗い場所、むせかえる甘いにおい―。


 恐怖が心を蝕み、姫の手が、びくんと跳ねた。

「姫……起きたのか」

 姫の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれていた。

 つないだ手を、互いにぎゅっと握りしめる。

「あの男か」

「分からない……。よく、覚えていないの。ただ、すごく、怖いの……」

 姫は、目をつむった。長いまつ毛から、また一粒、涙がぽろりとあふれる。

 竜が体を起こし、左手を姫の涙に伸ばそうとすると、姫は、陽の毛並みに鼻を埋めていた。



 落ち着いて、一つ一つ整理する。姫が書庫に入れられた後、すぐに、甘いにおいが立ち込めた。同時に、あの男の声が聞こえたのだが、何を言ったか記憶にない。言葉どころか、その後何をされたか、自分に何があったかすら、記憶にない。

 姫はしばらく、自分の右手中指にできた赤い石を、眉根を寄せて見つめていた。



 三人でリビングに降りていくと、姫の母が冷めたコーヒーを両手で握りしめ、ソファに座っていた。姫が入って来るなり、投げるようにカップを卓に置き捨て、姫を抱きしめた。

「怖い思いをしたのね。頑張った。鬼人になったこと……お夕飯にお赤飯炊いて、皆でお祝いしよう」

 姫の頭をぽんぽんしながら、姫の母は、竜に目を移した。

「竜ちゃん、運んでくれて、寄り添ってくれて、本当にありがとう」

 竜は、「いや」とつぶやいて、うつむいた。

 こぶしは固く、硬く、握りしめられていた。



 朝食を済ませると、三人はすぐに影宮神社に向かった。

 書庫の前に、雫が立っていた。微笑みをたたえ、本を読んでいる。

 三人の足音に気付くと、文字から目を離し、軽く会釈をした。

「なぜここにいる」

「昨日のことや、姫さんのことが気になりまして」

「しらじらしい嘘だな。貴様が全て仕組んだんだろう。神宮団、シグレ!」

 掴みかかろうとする竜の右手を、姫がばっと両手で掴む。

 陽は雫の肩に登り、「いい加減にしろよ!」と怒鳴りつけた。

「雫のことを疑うの、もうやめろよ! 戦いの間、雫はお前の目の届く場所にいた。俺もずっと一緒だった。お前の戦いを手伝ってもくれただろ。雫は、シグレとは別人だ。神宮団でもない!」

 反論しようと息を吸い込む竜の手首を、姫が一層、強く握った。

「陽の言う通りよ。竜、もう疑うのはやめましょう。ごめんね、雫くん。わざわざ来てくれて、心配してくれて、ありがとう」

 雫は、「お会いできてよかったです」と、微笑んだ。



 書庫を開けると、昨日に時間が巻き戻ったような気持ちになった。透明の蓮の花が、本も本棚も閉じ込めて咲き誇っている。真ん中にできた白い砂の道の先には、一際大きい、牢獄のような蓮の花が咲いていた。

「これ、私が……? 私の力なの?」

「姫さんはあの巨大な花の中で倒れていました。血だまりがありましたが、姫さんには傷がありません。だとすれば、姫さんがこの花を出現させ、敵を撤退させたと考えるのが妥当かと……」

「そんな……。どうしよう。これって、もとに戻せるのかしら……」

 姫は両手のひらで顔を覆って、「ごめんなさい」と声を震わせた。

「陽のお家の大切な資料をこんなにしてしまって……。陽を助ける大事な手がかりだったのに。雫くんにも、申し訳ないわ。せっかく二日もかけて、読み方を教えてくれたのに……」

「そんな。俺こそ、姫を巻き込んじゃって……」

 ごめん、と言い切らないうちに、竜が大きな手で姫の頭を包み、引き寄せた。

 陽は、むかっとした。

「夜になって、鬼人の力を試してみないと、まだどうなるかは分かりません。ですが、きっと大丈夫です。希望を捨てず、今できることをやりましょう。例えば、陰陽道の資料は、どこか他の場所にないのでしょうか?」

 陽は、首を振った。幼い頃、守護符研究所へ出かける祖父を引き止めて、「陰陽道の資料はここにあるだけだ。わしを含めてな! だから、歩く陰陽道資料のわしが、守護符研究所へ行くんだ」と諌められたことがあったから、よく覚えていた。

「つまり、おじい様にお聞きすれば可能性がある、ということでしょうか?」

「そうなんだけど……」

 陽は、「うぅん」と考えて、雫に、祖父が陽以外に面会できないことを、理由を含めて説明した。

 雫は、中指で下唇をなぞりながら空を見た。

「夜に行って、病院中の人間の魂を抜いて侵入すれば、お会いできそうですね。ただ、このご時世、人間や鬼人以外に、何か、機械が仕掛けられているかもしれませんね……」

 侵入警報機以前に、魂を抜いて屍だらけにする方が問題のように思えたが、大真面目な雫に、誰もそれを言えなかった。

「では、明日の午後に行きましょう。確実にうまくいく方法があります」

 雫は、にっこり笑った。



 夜になって試行錯誤してみても、姫の鬼人の力は発動すらしなかった。

 姫はしょんぼりと膝を抱え、右手中指を見つめた。

「申し訳ないけれど、明日の雫くんの作戦にかけるしかない……わよね」

 雫の自信たっぷりな笑顔を脳裏に描くと、不思議と、うまくいく予感が湧いた。

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