戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月18日(日) 20:00
文字数:2,924

 十四時。戸黒湖温泉駅に到着すると、彼らは宿に荷物を置き、蒼龍伝説の湖へ足を運んだ。

 山の麓の石鳥居をくぐり、長い階段を登ると、社があった。白を基調としており、とても美しかったが、彼ら以外の観光客はいなかった。

 裏手に、整備しきれていない山道があった。深く深く、足場の悪い木の根道を登っていくと、空を映した、やさしい蒼色の湖があった。水辺にたたずむ真っ白な鳥居が神々しい。森の中に隠されて、守られているのだろうか。気温も山道よりいくらか涼しく、透き通る空気が美味しかった。陽が覗き込むと、鏡のようにはっきりと、黒い獣が映った。

 何か変わったものはないかと、湖をぐるりと一周するも、何も見つからなかった。ただの伝説で、もはやここには何もないのかもしれない。そう思うほど、しんと静まり返っていた。虫の音、鳥の声さえ聞こえない。


 また夜に来てみようということで、彼らは宿に帰った。

 宿はペット同伴可の、小さく古い温泉旅館であった。しかし、思っていた以上に内装は豪華で、きれいだった。赤を基調としたカーペット、ほんのり漂うお香の香り、金色に輝くふかふかのロビーの椅子。どれも高級感があった。


 チェックインを済ませると、姫は三つの鍵のうち一つを、雫に渡した。部屋は二つ取ってある。

 姫と竜が同じ番号の鍵を持っているのを見て、陽の喉の奥が苦くなった。

 部屋割りの時の悔しさを思い出す。



 姫の母が予約してくれるということで、パソコンを囲み、宿を調べていた時だった。

 宿が決まったところで、竜が、姫と一緒の部屋がいいと言いだした。陽は当然、猛反発をした。

「お前な! いくら姉弟でも、男と女だぞ! 姫が一室、男三人で一室だろ、普通!」

 または、自分と姫、竜と雫―という思いはとりあえず胸に秘めておく。

「なんのために一緒に行くと思ってる。シグレは姫が一人の時を襲ってきた。姫を一人にしたら、また襲われるかもしれないだろう」

 姫は、「心配いらないわ、姉弟だもの。着替える時は外に出ていてほしいけど」と平然と言う。

 だが、陽はいやだった。いやでいやでたまらなかった。弟だろうとなんだろうと、姫が男と同じ部屋なんて、いやすぎる。


 それに加えて、陽の心には、妙な疑惑が渦巻いていた。


 竜の叶えたい願い。それはもしかすると、姫との血のつながりをなくすことなのではないか。

 そして、姫と結ばれることなのではないか―。

 そんなはずはない。馬鹿げた妄想だ。そう思いたい。思いたいのに、渦巻が鎮まらない。

 竜の言動や眼差しは、姉を想うものではない。どうしても、そんな気持ちが拭えないのだ。


 だだをこね続ける陽の体に、姫の母が指を立て、毛をくるくると回した。これをされると、毛の奥が背骨にこすれて、頭がふわっとしてしまう。

「陽くんの気持ちは分かるわよ。本当は私が一緒に行けたらよかったんだけど、仕事なのよね。でも、今回は、色々危険も伴うし、竜ちゃんの案でいかせてもらえないかしら。姉弟だから問題ないし、その方が安心じゃない?」

 ふにゃふにゃになった陽は、「ふぁい」と情けない返事をした。

 だが、のちに一人でがっくりと肩を落とした。モヤモヤした黒い煙が雲のように固くなり、陽の気持ちをずんと落とした。



 こうしたいきさつで決まった部屋にそれぞれ荷物を置いて、三人は温泉に入りに行くことにした。

 湖までの山道はかなり険しく、三人とも汗だくである。

 大浴場があるはずの二階に降りると、どういうわけか、表示がなかった。左右に道が分かれているのだが、どちらを覗き込んでみても、先は暗くぼやけていて、検討がつかない。

「お客様、ご案内いたしましょうか」

 やわらかい声に振り向くと、桃色の仲居着をまとう女性が微笑んでいた。やわらかな黄土色の髪を一つに束ねている。

 彼女に続いて、三人は、右の道を進んだ。時折彼女から、金木犀の香りがした。

 青と赤の暖簾が目に入り、姫は、「お仕事中にすみませんでした。ありがとうございました」と一礼した。雫も、ぺこりと一礼する。竜はいつのまにか、暖簾の奥に消えていた。

「いえ。ごゆっくりおくつろぎください」

 仲居は深々とお辞儀をし、暖簾の中へ消えるまで、姫の姿を見送っていた。



 温泉は期待以上だった。内湯は木製で、檜の香りで満ちていた。露天風呂は石造りで、ちょっとした小庭に青紅葉がたたずんでいたのも風情があった。蝉たちの悲しげな声に囲まれて、夏の夕暮れを心穏やかに過ごせる幸せを噛みしめた。


 髪を乾かすと、姫は、ロビーに向かった。


 二人はすでに、浴衣姿で座っていた。雫は紅茶を片手に読書し、竜は水を飲みながらぼんやりしている。同じ卓を囲んでいるのに、ちぐはぐに座っている様子を見て、二人はどんな風に浴場で過ごしたのだろう、話はしたのだろうか、と気がかりになった。

 竜の左隣に腰掛けると、目の前の雫がにこりと笑った。

 隣から、いつもと違うせっけんの香りがした。

 先ほどの仲居がやってきて、「お飲物をご用意いたします。ご希望はございますか」と膝をつく。水をもらうと、仲居は、「ごゆっくりおくつろぎください」と言って去っていった。

 三人は、玄関に飾られている、巨大な絵を見つめた。真っ白な龍が猛々しく描かれている。

「本当に蒼龍はいるんだろうな。生き物の気配一つなかったが」

「僕もはじめて来ましたので、断言はできません。ですが、蒼龍討伐に出た団員たちは、誰一人帰ってきませんでした。蒼龍に敗れたと取るのが妥当でしょう」

 蒼龍を刀に封じ込める方法は分からない。まずは力で押さえつけてみるしかないと、二人は示し合わせていた。だが、訓練を積み、実戦経験も豊富な神宮団が誰一人かなわなかったとするならば、一筋縄ではいかないだろう。気を引きしめねばならない。

 こくり、と水を飲む姫の横顔を、竜は、視界の隅に映した。



 夕食は雫と陽の部屋で、三人と一匹で囲んだ。例の仲居が甲斐甲斐しく、茶なりお代わりなりを給仕してくれる。お造り、山菜の天ぷら、すき焼きなど、味も見た目も素晴らしく、腹も心も満たされた。

 食事を済ませた彼らは、すぐさま立ち上がった。もう二十時を回っている。

 仲居は、食事中の会話から湖へ行くことを知ったのだろうか。片づけの手を動かしながら、「夜に行くのは、おやめになった方がよろしいかと」と、静かに声をかけた。

「もう三十年前のことです。私も女将に聞いたことなのですが、湖の龍見たさに、一人の鬼人がこの村にやってきたそうです。しかし、彼は夜に見に行ったきり戻ってこなかったとか。村の者は皆、蒼龍に喰べられてしまったのだと信じています。誰も本物の蒼龍を目にしたことはありませんが、この土地には鬼も鬼人もおりません。蒼龍が不浄なものを全て浄化するからです。皆様は、その右手中指の石からして、鬼人とお見受けします。どうか、こちらでごゆっくりお過ごしになられてください」

 止められると、無視するのも悪いと思ってしまう。竜以外の三人は、足が止まった。

 気に留めず靴を履き始める竜の後ろ姿に、仲居は声を高くして笑いかけた。

「そうした逸話に所以がございまして、当旅館は門限を二十二時と決めさせていただいております。二十二時を過ぎましたら正面玄関が閉まりますので、お早めにお帰りください」

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