武蔵市第三病院。裏側の職員玄関に、彼らは集合した。陽は、姫の父の部屋から借りた黒いトランクに忍んでいた。
「では、お二人とも。これを羽織ってください」
雫が、大きな紙袋から白い布を取り出すと、甘い香りが強く立ち昇った。
手渡されたのは、白衣であった。念のためにと、聴診器と度の入っていない眼鏡も渡される。
全て装着すると、ようするに、医者のコスプレであった。
「竜、すごく似合うわ。ドラマに出てきそう」
竜は少しの間、姫を見つめて石になっていたが、やがて眉をひそめ、右腕を鼻に寄せた。
「本当に、素敵です。姫さんも、似合っていらっしゃいますよ。髪を一つにまとめると、もっとそれらしいかもしれません」
「ありがとう。そうするわ。雫くんはしっくりきすぎていて……あれ……」
目の前が、ぐにゃりとゆがんだ。先ほどまではなかったはずなのに、雫の胸元に名札があるように見える。
「あまの……せんせ……」
陽がガタンガタンとトランクを揺らして、「俺も見たい! 一瞬! 一瞬でいいから、出してくれ!」と暴れた。
姫ははっとして、トランクを胸に抱えた。
「あ、ごめんね。我慢して、静かにしていてね。終わったら見せるわ」
もう一度雫を見ると、やはり胸に名札はなかった。雫は、クスッと笑った。
「女性は嗅覚が鋭いので、姫さんはかかりやすいのでしょうね。これは、催眠術です。強い香りはとても効果があるのですよ。誰も僕たちを中学生だと思わないでしょう」
竜が姫をかばうように、二人の間に入った。竜の背中から、バニラの香りが迫りくる。
「催眠だと? このにおい、あの男―シグレと同じにおいだ。貴様、やはり……」
「調合は変えてあります。ムスクは控えました。姫さんはあの香りに、恐怖で縛られているようですから」
「認めるのか、お前がシグレ本人だと」
「いえ。僕はシグレではありません」
竜の警戒の壁は、高く、堅い。それでも雫は、そびえる壁を、ただ受け入れ、眺めていた。
二人は黙ったまま、目と目を離さない。
トランクの中で、陽がガタゴトと動いた。
「いい加減にしろって言っただろ! 怖がってんのかよ!」
「怖がってるだと?」
振り返ってトランクを睨むと、姫が、「あの」と声を出した。
「そろそろ、入りませんか。天野先生、斎王先生。昼休みが終わります」
姫は、大真面目な顔で竜を見上げていた。
「ええ。行きましょう。患者さんが待っています」
雫はにっこり笑って、カードキーを取り出した。昨晩ここで待ち構え、今日欠勤する医師からくすねたのだという。
雫についていく姫は、すっかり催眠に堕ちている。「待て」と腕を掴んでも、「どうしたんですか、斎王先生。急ぎますよ」と、逆に引っ張られてしまう。
警備員の前を悠々と通り抜け、エレベーターに乗り込み、「五」のボタンを点灯させる。看護婦が三人乗っていたが、「あら、先生方、今お帰りですか」と、いつものことのように話しかけられた。雫も、いつものことのように「はい。お疲れ様です」と笑顔で返す。
「おい、貴様……」
雫は人差し指を唇に当て、竜の不信の言葉を制止した。三階に止まって、看護婦が出て行くと、雫から話を再開する。
「ここで信じていただけるとは思っていません。これが終わったら、全てをお話しします。信じていただけるよう、僕ができる、誠心誠意の協力をさせていただきます。僕は、みなさんの仲間になりたいのです」
雫は、ポケットから取り出したパクトを開くと、白い練り物を指に取り、自らの首筋に拭いつけた。
気が遠くなるような甘いにおいが、より一層、個室に充満した。
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