戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月17日(土) 20:00
文字数:1,445

 武蔵市第三病院。裏側の職員玄関に、彼らは集合した。陽は、姫の父の部屋から借りた黒いトランクに忍んでいた。

「では、お二人とも。これを羽織ってください」

 雫が、大きな紙袋から白い布を取り出すと、甘い香りが強く立ち昇った。

 手渡されたのは、白衣であった。念のためにと、聴診器と度の入っていない眼鏡も渡される。

 全て装着すると、ようするに、医者のコスプレであった。

「竜、すごく似合うわ。ドラマに出てきそう」

 竜は少しの間、姫を見つめて石になっていたが、やがて眉をひそめ、右腕を鼻に寄せた。

「本当に、素敵です。姫さんも、似合っていらっしゃいますよ。髪を一つにまとめると、もっとそれらしいかもしれません」

「ありがとう。そうするわ。雫くんはしっくりきすぎていて……あれ……」

 目の前が、ぐにゃりとゆがんだ。先ほどまではなかったはずなのに、雫の胸元に名札があるように見える。

「あまの……せんせ……」

 陽がガタンガタンとトランクを揺らして、「俺も見たい! 一瞬! 一瞬でいいから、出してくれ!」と暴れた。

 姫ははっとして、トランクを胸に抱えた。

「あ、ごめんね。我慢して、静かにしていてね。終わったら見せるわ」

 もう一度雫を見ると、やはり胸に名札はなかった。雫は、クスッと笑った。

「女性は嗅覚が鋭いので、姫さんはかかりやすいのでしょうね。これは、催眠術です。強い香りはとても効果があるのですよ。誰も僕たちを中学生だと思わないでしょう」

 竜が姫をかばうように、二人の間に入った。竜の背中から、バニラの香りが迫りくる。

「催眠だと? このにおい、あの男―シグレと同じにおいだ。貴様、やはり……」

「調合は変えてあります。ムスクは控えました。姫さんはあの香りに、恐怖で縛られているようですから」

「認めるのか、お前がシグレ本人だと」

「いえ。僕はシグレではありません」

 竜の警戒の壁は、高く、堅い。それでも雫は、そびえる壁を、ただ受け入れ、眺めていた。

 二人は黙ったまま、目と目を離さない。

 トランクの中で、陽がガタゴトと動いた。

「いい加減にしろって言っただろ! 怖がってんのかよ!」

「怖がってるだと?」

 振り返ってトランクを睨むと、姫が、「あの」と声を出した。


「そろそろ、入りませんか。天野先生、斎王先生。昼休みが終わります」


 姫は、大真面目な顔で竜を見上げていた。

「ええ。行きましょう。患者さんが待っています」

 雫はにっこり笑って、カードキーを取り出した。昨晩ここで待ち構え、今日欠勤する医師からくすねたのだという。

 雫についていく姫は、すっかり催眠に堕ちている。「待て」と腕を掴んでも、「どうしたんですか、斎王先生。急ぎますよ」と、逆に引っ張られてしまう。


 警備員の前を悠々と通り抜け、エレベーターに乗り込み、「五」のボタンを点灯させる。看護婦が三人乗っていたが、「あら、先生方、今お帰りですか」と、いつものことのように話しかけられた。雫も、いつものことのように「はい。お疲れ様です」と笑顔で返す。

「おい、貴様……」

 雫は人差し指を唇に当て、竜の不信の言葉を制止した。三階に止まって、看護婦が出て行くと、雫から話を再開する。

「ここで信じていただけるとは思っていません。これが終わったら、全てをお話しします。信じていただけるよう、僕ができる、誠心誠意の協力をさせていただきます。僕は、みなさんの仲間になりたいのです」

 雫は、ポケットから取り出したパクトを開くと、白い練り物を指に取り、自らの首筋に拭いつけた。

 気が遠くなるような甘いにおいが、より一層、個室に充満した。

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