姫の家の隣にある小さな公園に、二人はぽつんとしゃがんでいた。雨が蒸れた、梅雨のにおいが充満している。紫色の守護符の灯りが、公園の中をほのかに照らしているが、深緑のクローバーは暗闇に溶けてしまって、よく見えない。竜が、スマホのライトで姫の手元を白く照らした。
「そういえば、竜、告白されたんだって? 先輩に」
「さあ」
「さあって。聞いたわよ。は? って返したんだって?」
「あぁ、あれか」
二人は、指で一つ一つクローバーの葉を確かめながら、目も合わせず、さらさらと話をする。湿った土のにおいがする。
「竜のこと、好きって言ってくれたんだから、大切にしなきゃ。ありがとうとか、ごめんなさいとか、誠意を持って返した方がいいわ」
「なんて返したって結局同じだろう。そんなどうでもいい奴に、いちいち言葉を考える必要はない」
姫の指が、クローバーの葉をつまんで、止まった。
「竜は、好きな人とか、いないの」
竜は、手を止めなかった。川の流れのようだった言葉は、せき止められたように出なくなった。蛙や虫の高い音が沈黙を埋める。
「竜は――」
降り始めた雨のように、姫の声がぽつりと漏れた。
「私のこと、どう思ってるの……」
竜の手が、止まった。
耳の中が、空っぽになる。
姫が、すっと立ち上がって、少し離れたところにしゃがんだ。
自分のスマホのライトでクローバーを照らし、指を動かす。
竜は、何も言わない。
ああ、いっそ、言わなくていい。どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう。
自分の伝えるべきことは、変わらないのに。
姫は、ずっと考えてきた。
あの戦いで鬼神が言った、竜が自分のことを大切に思っている、という言葉を。
そして、竜が今まで何度も繰り返してくれた、「姫が幸せならそれでいい」という言葉を。
竜はどうして、そんな風に思ってくれているのだろう。どうして、そんなことを言ったのだろう。
眠れない夜を繰り返した。
いつまでも朝が来ない気がして、窓を見つめては、苦しくなって瞼を閉じた。
一つの憶測が心で騒ぐ。竜の行動がつながっていく。
だが、確かめようとどうしようと、伝えることは変わらない。
それなのに、口に出そうとすると、死んでしまいそうなくらい、胸が痛くて、苦しい。
体が勝手に、命をつなごうと、浅い呼吸をする。
その時。右手の指が、隠れた葉っぱを一枚見つけた。
白いライトで照らすと、たしかにそれは、四つ葉のクローバーだった。
根元からやさしく摘み、胸に抱いた。
心からの願いを、託すように。
「竜」
振り返ると、姫が、四つ葉を差し出していた。
「竜が、幸せになりますように」
優しい微笑みに、なぜか息が苦しくなって、竜は目をそらした。
「俺は……姫が幸せになれば、それでいい」
「だめ。持っていてほしいの。お願い」
姫が、竜の前に膝をつく。そして、竜の左手をそっと開くと、四つ葉を置いた。
「竜、聞いて」
姫の指が、やさしく、竜の左手の指を畳んで、クローバーを握らせた。そのまま、ぎゅっと、姫の細い指が、竜の大きな手を握りしめる。白い指は、少しだけ冷たくて、少しだけ震えていた。
「竜、この前も言ってくれたわよね。私が幸せであることが、自分の幸せって。嬉しかった。竜が私と同じ高校に行くって言った時も、びっくりしたけど、嬉しかった。また一緒にいられるんだって。でも、私……そうやって、竜に依存していたんだなって、気付いたの。竜が、誰かに告白されたって聞いた時も、すごく、いやな気持ちがして……。だめよね。竜が私を……幼馴染として大切にしてくれているからって、そうやって、竜を縛っている」
「いいよ」
「よくない。だって、私は……竜と、ずっと一緒にはいられない」
泣きそうな瞳が交差する。竜が、ひとりぼっちになったような目をしている。
かすかに、「なんで」と、唇が震えた気がした。
「私は、竜がどんなに大切に思ってくれていても、陽が好きなの。この先、どんな将来があるか分からないけれど、きっと私は、大学に行ったり、誰かと結婚したりするわ。でも、私は、竜の想いにこたえられない。こたえられないのに……。そうやって、振り回して……竜の人生に、私はこれ以上、責任を持てないの……!」
姫の手が、竜の左手から離れていく。強く食い込んだ細い指の跡は、すぐに赤みを帯びて、熱くなった。
姫は、小さく「ごめんね」と肩を震わせた。
「距離を、置いてほしいの」
竜はしばらく、自分の左手を名残惜しそうに見つめ、熱いところを撫でていた。
だが、やがて、「分かった」と静かにつぶやいた。
耳慣れた足音が、遠くなっていく。
姫は、ありったけの力で、胸を掴んだ。
痛くてたまらない。
心がえぐられて、ぽっかり穴が開いてしまって、だけど、もう決してふさぐことができないような、果てしない痛み――。
だけど、きっとこれでいい。
自分も、竜も、幸せになれる。
悲しみも、苦しみも、永遠には続かない。
いつかきっと、この痛みを乗り越えて、幸せになれる日が、きっと来る。
今までだってそうだった。生きているって、そういうことだ。
いつのまにか、虫の声は聞こえなくなっていた。
ぽつり、ぽつり、と姫の頬に雨が落ちた。
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