目を覚ますと、真っ白な世界にいた。
空も床も白い。右も左も永遠のようだ。浮いているのか、地に足をついているのかも、分からない。音もない。指を動かしても、空気というものを感じない。呼吸をしているかどうかさえ分からない。
死んでしまったのかもしれない。鬼神が、自分の願いは、命を代償とする、と言っていたから。
もし死んでしまったのなら、姫の幸せは叶ったということだろう。それなら、良い。
一度瞬くと、目の前に、羽衣をまとった真っ白な少女が立っていた。
色がなく、髪の長さは腰ほどまであり、表情も少し違ったが、姫と同じ顔をしていた。
彼女は、優しく微笑むと、両手を差し伸べた。
自然と、手が伸びた。彼女の指先に触れると、清らかな水に触れた時のような冷たさと、波紋のような震えが、体中に響いた。
「斎王 竜。ありがとう。私の幸せを願ってくれて」
頭の中に、言葉が響いてきた。優しい、姫の声だった。だが、姫ではない。
「俺は、姫の幸せを願った。お前は誰だ」
喉からは声が出なかった。触れ合った指を通じて、言葉が通う。
「私は、東条 姫の魂。かつては、天女でした。あの方と出会い、恋に落ちるまでは」
彼女が哀しそうに瞳を閉じると、真っ白だった世界に、彼女の記憶が映し出された。
天女は、人の世にはびこる妖怪達を殲滅するため、天神に命じられ、とある湖に降り立った。そこで、不浄なものを清める蒼い龍を創り始めた。ある時、陰陽武士の青年がやってきた。青年は天女が蒼龍に捕らえられていると思ったのか、蒼龍の中で眠る天女を救い出した。
一目で恋に落ちた天女は、蒼龍を完成させることなく、信濃の藩主の娘に化けて、青年と結婚した。
少し不思議な力が使える人間のふりをして、彼女は青年に尽くした。
――しかし。
幸せな映像は途切れた。世界は再び、真っ白になった。
「あの方は私を裏切り、私を殺しました。私の魂は憎しみで染まり、鬼神の人格が生まれました。そして、世界中に鬼と、鬼人を生んでしまった……」
彼女は、真珠のような白い涙を、ぽろりとこぼした。
「天神は怒り狂い、私を天から追放し、呪いをかけました。私は、人間として永遠に生を繰り返し、愛する人に裏切られる哀しみを味わい続けてきました。そして今世もまた、愛する人に裏切られる哀しみを、私は味わった……」
「つまり、その運命を断ち切れば、姫は幸せになれるのか」
「ですが、東条 姫は私の仮面に過ぎません。東条 姫の幸せを願うということは、私の魂の救済を願うということ。それは、時代を超越し、世界を変えることになります。あなたの命をかけても、足りないかもしれません。世界の均衡が崩れてしまうかもしれません」
「姫が幸せになるなら、俺はそれで構わない」
彼女は、首を横に振った。
「あなたのその想いは嬉しい。ですが、東条 姫は、あなたにも幸せになってほしいと願っています。私の魂があなたの魂を愛することをおびえるばかりに、東条 姫はあなたと結ばれることを避けてしまっているけれど……。あなたがあなたらしく生きること、そして、自身の願いのために生き、幸せになってほしいと、心から思っているのです」
自身の願い。
竜は苦しくなって、胸を掴んだ。
「俺は本当に、姫の幸せを願っていた。だが……姫のためといいながら、結局は全部、自分のために動いてきた。もっと他に道があったのに、いろんな選択を間違えて、そうやって結局、姫を幸せにできなかった。だから俺は、俺の思いも願いも、全部いらない。姫が幸せになれるなら、俺は幸せになれなくていい」
彼女は、水のように透き通った瞳で、竜の心の奥を見据えた。
「誰だって、間違いを犯します。東条 姫も、あなたに幸せになってほしいと願い、あなたと離れる選択をしました。とても、自らの胸を痛める選択を……。人は正しい選択と間違った選択を繰り返し、傷つけ合って、慰め合って、不幸と幸福を繰り返して生きているのです。あなたの選択は、不幸だけをもたらしたのではありません。あなたの優しさや本当の気持ちに触れた時、どんなに嬉しく思ったことでしょう……」
優しい瞳に包まれて、体に言葉が沁み込んでいく。
彼女の心が伝播して、竜の心に温かさが広がる。
姫と一緒にいる時の、温かさに似ていた。
少しだけ、赦された気がした。
「後悔しない選択はありません。ただ……後悔の少ない選択をすることはできます。それは、自分の本当の気持ちに素直になって選択すること。あなたは自分を犠牲にして生きてきた。自分の気持ちを抑え、彼女の絶望をも一人で背負って。でも、今、あなたは自分の本当の願いが分かっているはず。自分にとって辛い選択をする必要はありません。本当の願いを、本当の気持ちを大切にすればいいのです」
竜は、目をつむった。自分の本当の願いを、噛みしめるように。
そして、ゆっくり、瞼を開いた。
「俺は……姫を幸せにしたい。俺の命を、全てをかけて。俺の全てで足りないなら、世界を全てかけてもいい」
竜は、まっすぐに、言った。
「姫の幸せが、俺の幸せだ」
白い少女は、瞳を、大きく見開いた。
「かつてのあなたが、私にくださった言葉と……約束と、似ていますね」
二人の手が、離れた。
白い体が、羽衣に引き上げられ、ふわりと天に舞い上がる。
美しい声が、白い世界に響き渡る。
「この選択が、あなたにとって幸せなものであるよう、願います」
声が消え、少女が白い光を解き放った。
瞼の中が、真っ白に染まった。
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