陽と、付き添いで来ていた雫と光が姫の家から出ると、竜が立っていた。
その姿は、夜闇の紫色の中でぼんやり浮かぶようだったが、激しく、揺らぎない憎悪が、体の底から黒くあふれかえっていた。
陽は射すくめられて、思わず自分の身を抱いた。
「話がある。ついてこい」
「斎王くん、あのことなら――」
竜の鋭い眼光が、雫を貫く。電に打たれたような感覚がほとばしり、雫は、言葉を失った。
光も、唾をごくりと飲んだ。唇に鍵がかかったようだった。
三人は、静かに竜の後ろについていった。
たどり着いたのは、武蔵山公園だった。武蔵市第五地区の奥、小高い山の中にある場所である。
紫の灯はない。月光は輪を描くばかりだ。暗闇が、四人を閉じ込める。
竜は、二本の角を生やし、牙を剥いた。
そして、青い太刀を右手に握ると、殺気に満ちた切っ先を、怒りの矛先に向けた。
「ここまでだ。お前を殺す。影宮 陽――いや、隠形鬼、カゲロウ」
青い切っ先が、陽の喉に触れる。
陽の額に冷や汗がにじむ。困惑して、全身がしびれる。
「ちょ……っと、待ってくれよ。なんで、俺が…………?」
雫と光が、陽を守る壁になった。三歩下がって、竜の殺意と間合いを取る。
「斎王。坊ちゃんはカゲロウじゃねぇ。ぜってぇ違う!」
「僕も同感です。陽くんは、違います! たしかに、隠形鬼ではないという証拠はありません。ですが、陽くんが隠形鬼であるという明確な証拠もありません!」
二人は、隠形鬼の下っ端男と戦った後、陽が四鬼の一体、隠形鬼カゲロウであることを竜から聞いていた。しかし俄かに信じがたく、陽を見守ってきた。
隠形鬼は、全ての記憶をその体から引き継ぐ。だが、陽がふりをしているとは、どうしても思えないのだ。まっすぐに人を思いやる温かさ、言葉にこもる熱意、姫を想う表情――その全てが本物に思える。ありのままに生きているようにしか見えない。
二人は、陽を信じていた。
「目に見える証拠はない。だが、俺は、鬼神から聞いた」
姫が陽と付き合いだして、二か月ほどが経ったある日のことだった。夜になると度々姫の体に現れていた鬼神が、高い声で、腹を抱えて笑い出した。今でも、あの時の言葉は、全て覚えている。
「この女がどうしようもなく執着してから、と思っていたが――だめだ。おかしくて、我慢ならぬ。この女の恋人になった男、影宮 陽といったか。奴は、四鬼が一体、隠形鬼カゲロウだ。ふふ……何を考えているのやら。私の魂を見抜いているわけでもないだろうに。食えぬ奴よ」
隠形鬼が何か、四鬼が何か。その時、鬼神の話から、全てを知った。
鬼神は、楽しそうに笑って、竜の顔を覗き込んだ。
「さあ、早くしないと、隠形鬼がお前の愛しい女を喰ってしまうかもしれぬな? その前に殺さないと――ああ、だが、そうしたらどれほど、この女は哀しむだろうか。心を壊して、お前を憎んで……。お前の魂がずたずたに引き裂かれるのを見るのが、楽しみだな」
はじめは、そうやってけしかけているのだと思った。
だが、本当だったら?
嘘でも、まだ二か月。このまま陽への気持ちが強くなって、それから引き離すよりいいだろう。
そう考えた竜は動いた。鬼に殺されたことにするために、神社前の守護符を剥がし、鬼を誘導した。
「あの時の――そういうことだったのか。だけど、俺は違う! 隠形鬼じゃない!」
「メイゲツは、姫に手を出さないよう、部下たちに伝えていた。姫を傷つけず、俺を狙う。読めない動機も、お前がカゲロウであれば、つながる」
「おいおい。坊ちゃんがてめぇを殺して、姫ちゃんを独り占めしたいって思ってるってことかよ! 坊ちゃんは、人を思いやれる人だ。姫ちゃんが傷つくようなことはしねぇ。てめぇと違ってな!」
竜は、殺気を込めた眼差しも、切っ先も、陽から離さない。
「違うと言い切るなら、蒼龍の牙を受けろ。奴の牙は不浄なもの、鬼や鬼人の体を貫く。だが、人間は傷つけない。お前が隠形鬼でないならば、蒼龍の牙を受けても、お前は生き残るだろう」
白い煙が、蒼龍となる。爪を伸ばし、牙を伸ばして、咆哮する。
光は一角を生やして、両手に紙人形を構えた。
「てめぇの言葉が嘘だって可能性もあるだろうが! 本当は、てめぇが坊ちゃんを邪魔に思ってんじゃねぇのか!」
竜は、壁になる二人を、冷ややかに一瞥した。
「どかないなら、お前たちも死ね」
蒼龍が、高く咆哮した。直角に、三人に迫りくる。雫と光の声が重なる。
「式神、|守壁《しゅへき》! 急急如律令!」
たちまち、三人の頭上を、六重の式神が覆った。蒼龍の爪が強く食い込む。じわり、じわりとつぶれていく。白い壁が溶けていく。
光は、空いた穴の先へ、両手を伸ばした。
「この野郎! 蒼龍様をひっこめやがれ!」
竜の体に、息もできぬほどの爆風が直撃する。だが、竜は微動だにしない。冷たい殺気を燃やしながら、まっすぐに立ち構えている。
白い壁が消える手前で、雫は七枚の紙人形を手に、再度術を唱えた。頭上に再び、白い壁が現れる。
蒼龍の指に握りつぶされ、みるみるうちに溶けていく。
だが、それでいい。ただの目くらましだ。
「光くん、行ってください。ここは、僕が引き受けます」
「……怪我すんなよな!」
光は陽の腰を抱えると、足の裏から思い切り突風を噴射し、一直線に、上空へ飛び立った。
「蒼龍!」
竜の目が、二人を追いかける。蒼龍も細くうねりながら、二人の体を追っていく。
雫は溶けかけた白い壁の脇からすっと抜け出て、竜の死角に入った。静かに、しなやかに、竜の足を払う。竜はしかし、頑としてまっすぐ立っていた。冷たい眼光が、雫を刺す。太刀が軽やかに、しかし重たく、振り下ろされる。
「式神、捕縛! 急急如律令!」
式神の紐を自らの腕に巻き付け、刃を受ける。鉄がぶつかり合う音がして、互いの腕がじんと響いた。雫はそのまま刃を握ると、ぐいと引き寄せ、くるりと宙に身を上げた。
竜の目の先、雫の指には、封印札が挟まれていた。
蒼龍は、竜の『無限刀』、すなわち、鬼人の力に宿っている。鬼人の力を封印すれば、蒼龍をおさめさせられよう。単純な作戦だ。
だが、一筋縄でいくはずもない。青い太刀が、雫のわき腹に迫る。
雫は即座に腕の式神を脚に巻き替え、蹴りを回して刃を受けた。反動で宙を舞いながら、脚の紐を右手に持ちかえ、竜に伸ばす。竜の左手首に、式神の紐が巻き付いた。一瞬着いた地を蹴って、紐をたぐりよせながら、竜の懐に潜り込む。
封印札を、竜の体に突き伸ばす――。
「邪魔だ」
視界の端に、青い閃光が映った。はっとして、体を後ろへ反らす。
間一髪、と見えたが――喉に、切り傷が刻まれた。目を離した一瞬の隙に、竜が、太刀を捨てて短刀を宿し、斬りつけてきたのだ。
体をそらしていなければ、確実に、首が落ちていた。心臓が、ぞくりとする。
だが、そんな気持ちに浸っている場合ではない。短刀を握る右手首が、再び間近に迫りくる。
封印札を貼るなら、今が好機。
雫の指が、封印札が、竜に伸びた。
しかし、青い刃が下から振り上げられ、手のひらごと、封印札が半分に斬り裂かれた。肉がえぐられ、骨がこすれる。激しい痛みが冷たさを伴う。雫は下唇を噛んで耐え、竜の右手首を掴んだ。
竜は、容赦ない。今にも仕留めんと、全力で刃を攻めてくる。傷を負った細身の片腕では、竜の力に抵抗しきれない。だが右手は、式神の紐で竜の左腕を捕らえているので、使えない。捕えていると言っても、竜の方がむしろ強く引っ張ってくる。体勢を崩そうとしているのだ。引きずられないよう、歯を食いしばって抵抗する。余裕など、あるはずがない。
「斎……王、くん……! お願いです! 蒼龍を、蒼龍を……おさめてください……!」
竜は、ふっと力を抜いた。瞬時に、雫の片足が、軽く払われる。
体が一瞬、ふわりと浮いたのが最後。硬い土に、肺が打ち付けられた。
式神の紐がゆるむ。右手首が捕らわれ、握りつぶされる。さらに、その右手首を雫自身の喉に押し付けられ、圧迫させられる。声が出ない。息さえ、危うい。
――なんとか、しなければ……!
浅い呼吸の中で、方法を探す。自らが助かるための、ではない。蒼龍をおさめる方法をだ。
だが、右手は自らの喉を圧迫させられ、左手は短刀に抵抗している。腰を動かして体をひねらせてみるも、びくともしない。ただ、上体を押さえ込まれているだけなのに。
「蒼龍。その男ごと、斬り刻め!」
焦燥する雫の瞳に、天を駆ける光と、蒼龍の姿が映った。
蒼龍が猛る。白い爪が、光の背中を一筋、刻む。痛みにひるんだ光の腕から、陽がこぼれ、落ちていく。蒼龍が陽を追い、牙を、爪を伸ばす。そして、わずかに触れんとした時。陽の体は何かに押されるように蒼龍から離れ、茂みの中にふわりと落ちた。光が力を振り絞り、風の力で、蒼龍の襲撃から守ったのだ。
雫の近くに、どさりと落ちる音がした。目を動かすと、赤い一筋の傷がうるむ、光の背中が見えた。
「ぼっ、ちゃん……!」
光が、痛みに抗い、喘ぐような声を上げる。
蒼龍の牙が、爪が、咆哮が、まっすぐ陽に迫っていく。風を出すが、間に合わない。
陽が恐怖で顔を濡らし、ぎゅっと目をつむった。
――もう、これしかない。
雫の右手中指が、竜を見据える瞳が、迷いなく、赤く染まらんと輝いた――。
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