戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月9日(金) 20:00
文字数:2,389

 街は、紫色のぼんやりした灯りに包まれていた。外壁に等間隔に貼られた守護符しゅごふの輝きである。空の橙と街の紫が混ざり、美しい。

「きれいね。この守護符、陽のおじい様が開発に協力したんでしょう?」

 陽は後ろ首を掻いて、「まあ……そうだけど……」と曖昧な返事をした。


 その昔、万能の力を持つ「鬼神おにがみ」がいたという。鬼神は命の終わりに、自らの魂のかけらを日本中にばらまき、かけらを宿した妖怪「鬼」と、かけらを宿した人間「鬼人おにびと」を生んだ。

 鬼は、力を求めることに傲慢で、破壊を好む化け物である。同胞や鬼人の魂を喰らい、自らの力や知能を増幅させながら、夜を生きている。

 鬼人は、一見人と変わらないが、夜にのみ発動できる特殊な力を持つ。同胞である鬼人や鬼を殺し、力の源である右手中指の赤い石にその魂を吸い取らせ、花の形に成長させれば、どのような願いも叶えることができるほどの強大な力を得られるという。

 とはいえ、ほとんどの鬼人は力を満足に扱うことができないので、一方的に鬼に襲われる状況にある。そのため人間は、同じ姿で、人間から産まれ落ちる鬼人を、異質で危険な存在、災厄の根源とし、蔑んできた。しかし現在は、鬼人の力で人間を襲った場合の懲罰が定められたり、鬼人同士の殺し合いが禁じられたり、力のない鬼人を鬼から守るための守護符が鬼人の住宅を中心に貼られるようになったりと、鬼人と人間が共存できる環境が整えられ、鬼人への差別がなくなっている。


「この紫の灯りは、平和の象徴ね。陽のおじい様が平和をつくった証でもある」

「まあ、世間の人にとってはすごいのかもしんないけどさ。俺にとっては、ただのうるさいじいさんだよ」

 歩き出そうとした時、姫はふと、外壁に貼られた一枚の札が破れていることに気が付いた。上半分を失った札は、効力を失っているのか、紫色の灯が消えている。

「これって、一つでも剥がれてしまうと、結界に穴ができてしまって危ないんでしょう? 陽は陰陽師の血を受け継ぐ大切な跡取りだし、賢い鬼は狙ってくるかもしれない。何かあったら大変だわ」

「あ、忘れてた。夕飯買うついでにコンビニで買っておく。ありがとな」

 そうといっても、陽は陰陽術を全く使えなかった。最強の陰陽師と謳われた祖父の血が流れているので、いずれは使えるようになるのかもしれないが、何度練習してもできなかった。祖父はそんな陽を見限って、陰陽術を一切教えてくれなくなった。


 しかし、そんな過去など今はどうでもいい。


 陽の頭には、キスのことしかなかった。陽はあらかじめ何パターンかキスのシチュエーションを妄想していたが、最もロマンティックで、尚且つ、恥ずかしさや気まずさを軽減できるのは、やはり夕焼けの中での別れ際である。キスして「またな」が最もよい。


 平静を装い、たわいもない話をして、姫の家の近くまで来た。姫の家の隣にある小さな公園の前で、姫は、「送ってくれてありがとう」と微笑んだ。いつもはここで、「ん。じゃあな」と、姫が家の中に入っていくのを見送る。

 だが、今日は違った。「あ……」と言って、引き止める。

 しかし、次の言葉が出てこない。

「陽?」

 脳が、言葉を作ってくれない。唇が、開かない。焦って頭に血が上り、自分の鼓動で体が震える。自分の決意に負けて、「ん。じゃあな」と言ってしまいたくなる。いや、それではだめだ。


 ああ、何か、何か言わなければ……。


 焦燥にまみれ、弱さとの間で葛藤し、頭の中がぐるぐるする。

 その時。姫の手が、陽の二の腕に触れた。


 心配そうな姫の、やわらかそうな唇が、鼓動で揺れる瞳に映る――。


 陽はごくっと唾を飲み込み、二の腕にある姫の手を握った。その手が左なのか右なのかも分からないが、自分の手がひどく冷たくなっていることだけは分かった。そして、誰もいない公園に姫を引き連れると、隠れるように隅に入った。クローバーのやわらかい茂みが、足元をふわふわさせる。


 ――ええい、ままよ! 勢いまかせで口走る。


「あの……キス、していいか!」


 姫は、大きな瞳を丸くすると、何度か瞬きをして、足元に目を落とした。

はらりと流れる髪から、真っ赤になった耳が覗く。握り合った手が、鼓動と一緒に大きく揺れる。

少し経って、かすかに、「うん」という細い音が聞こえた。


 姫の小さな両肩を、恐る恐る、手のひらで包む。呼吸が、小さくなる。

 ごくり、と喉の音が頭に響く。

 唇を、ゆっくりと近づける。



 ヒグラシの音しか、聞こえなくなった。



 次第に、互いの唇の熱が、脳や体に流れる血の温かさが、戻ってきた。

 体を離すと、姫はすぐにうつむいた。陽の両手は、びっしょり濡れていた。

「あ……じゃ、じゃあ……また」

「うん……」

 互いに、震える吐息だけで軽く挨拶を交わすと、陽は、全速力で駆け出した。

 心臓がばくんばくんと暴れまわって、体を、脳を、激しく揺らす。久しぶりに機能した言語中枢は、「やばい」を無限に生み出していた。


 走って、走って、コンビニも通り過ぎて、鳥居をくぐって、石段を駆け上がって、社務所に入って、玄関に倒れこんで、「うわあぁぁ……!」と奇声を上げながら、ごろんごろんと転がって……。

 冷めやらぬ昂奮のまま、剣道部の同輩三人に『キスしたやばい』とメッセージを送る。そして再び、「うわあぁぁ……!」と奇声を上げながら、ごろんごろんと転がった。

 しばらく転がったのち、陽は、そのまま大の字になって、ぼうっと天井を見つめた。


 ――なんだ、これは。


 今まで生きてきた人生で、心臓が、体中が、心が、自分の全てが破裂しそうになっておかしくなりそうな、こんなにとんでもなく幸せな瞬間はあっただろうか。

 生きている。自分は、生きている。

 当たり前なのに、新しく知ったようだった。嬉しさがじんわり、胸いっぱいに広がった。


 しばらくぼうっとしていると、キスのやわらかさを思い出した。心臓がまたドキドキして、奇声付きのごろんごろんを繰り返した。

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