記憶の始まりから、姫と手をつないでいた。
幼稚園から帰ると、互いの家に帰るだけなのに、姫の手を離すことがひどく不安だった。
なんとかしてつながっていたくて、隣同士の窓を開けて、話をしながら眠りに落ちた。
小学校に入ってやっと、手をつながないことを我慢できるようになった。
姫以外には何もいらない。姫以外とのつながりは汚くていやだ。
そうやって、望んでつながりを作らない自分に、やっぱり姫は手を差し伸べてくれた。
姫といると、それだけで幸せだった。
だから自分も、姫を幸せにしたいと思った。
姫はいつもにこにこしているけれど、自分がもらうこんなに大きな幸せは、きっと持っていないだろう。
ありったけ集めた四つ葉のクローバーは、全部、姫にあげた。
だが、自分が何をしたって、自分がもらう幸せには到底足りていないことを知っていた。
魔法でもない限り、足りることはないだろうと思っていた。
小学五年生の冬。突然、鬼人の力が目覚めた。
二日間熱で寝込んで、目が覚めると、右手の中指に赤い宝石が埋まっていた。
魔法が来た、と思った。
熱も引かないうちに、小躍りしながら窓枠に上り、ノックもせずに姫の部屋の窓を開けた。パジャマ姿で窓の柵から身を乗り出す。姫は目を丸くして駆け寄った。
「どうしたの? 熱はもう大丈夫?」
額に貼っていた熱さましシートが剝がれかけている。姫はやさしく、貼り直してあげた。
「熱なんてどうってことない! それより、これ!」
竜が、右手の中指を突き出す。姫の瞳に、赤いきらめきが映った。
「鬼人になった! しかも、すごいぞ」
竜がくるっと手のひらを返すと、青い刃の刀が現れた。姫は、ぽかん、と目と口を丸くしている。
「これなら、鬼と戦える。知ってるか? 鬼を倒しまくって、この石が花の形になると、なんでも願いが叶うって話。俺は、たくさん鬼を倒す。花を咲かせたら、姫にやる! 姫が最高に幸せになるような願いを言ってくれ!」
竜が、生えたての角をいじりながら、牙を見せて笑った。
姫の唇が、ゆっくり、弧を描いた。
「そう。それは、楽しみ」
瞳が、石を映してもいないのに、赤く染まった。
背筋がぞくり、とした。
すぐに分かった。
これは、姫じゃない。
「誰だ、お前……」
夢なのか? 困惑で、瞳が震えて、よく見えない。だが、姫の髪が、綺麗な栗色から漆黒に染まっていくのははっきり分かった。額から、つるのようなものが生えて、姫の頭を抱える。いばらの冠さながらの、角であった。瞳の奥に、赤い花が咲いていた。
姫の顔は、今まで見たことのないような、不穏な笑みをゆがませた。
そして、伸ばしたまま固まった竜の右手を掴み、体ごとぐいっと引っ張った。
やはり、いつもの姫ではない。姫に、こんな力はない。
ねじ切れてしまいそうな腕の痛みに声も出せない。
抵抗しようと白い手に触れたが、力は入れられなかった。
姫ではないが、姫の体であることは間違いない。
姫を、傷つけたくない。
歯を食いしばって痛みに耐える。
「ああ、五〇〇年……五〇〇年待ったぞ。ようやく、見つけた。この、憎い、憎い、魂を……!」
歓喜と憎悪の混ざった笑みが、竜の顔に近づいた。
「幼いが、面影はある。間違いないな」
竜は、ごくりと唾を飲んで、同じ問いを絞り出した。
「……誰、なんだ、お前……」
「私は鬼神。この女と私を別物と見分けられたこと、誉めてやろう。よほどこの女が大切とみえる」
――オニガミ。
小さい頃、鬼と鬼人が生まれるきっかけになった昔話を聞いたことがあった。
鬼と鬼人を生んだ者を、鬼神といった。
姫の顔をした女から感じる、得体の知れない、おぞましい力。たしかに、鬼神に違いない。
だが、竜はいっそ明確に敵意を向けた。
「姫に憑りついているのか……! 姫の体から、出ていけ!」
「憑りついてなどいない。私は生まれ変わり、この体に宿ったのだ。この体は、私のもの」
白い手が、力を強める。竜の腕から、ビキビキと、氷にひびが入ったような音が響く。竜は、強く歯を食いしばった。あまりの痛みに、頭の中が白くなる。手のひらが硬直して、青い刃が茂みへ落ちる。冷や汗が、首から体につたっていく。
それでも、竜は鬼神を睨み続けた。
「姫を……返、せ……!」
鬼神が、恍惚の笑みを浮かべた。
「なるほど、痛みには耐えられるか。だが、この女がお前の弱み、というわけだな」
少女の左手が、竜の下顎を掴む。細い指の先が、骨に食い込む。
「私は五〇〇年間、お前の魂を―私の夫だった男の魂を探し続けていた。私を裏切ったあの男に、復讐するために。巡り会ったからには、お前のその魂を、私が味わった以上の絶望で苦しめて、ずたずたにして、粉々に砕いてやる。お前がこの女に執心しているならば、まずはこうしよう」
瞳の奥の花が渦巻く。まるで、眠り姫の糸車のように。
「今、この時より、お前たちは血のつながりのある姉弟だ。お前は愛しい女と、一生結ばれない。それでも、きっとお前はこの女を愛し続けるだろう。求め続けるだろう。身が張り裂けるような苦しみを味わいながら!」
「はったりだ! そんなこと、できるわけがない!」
「私は万能なのだ。あと少し力があれば、この世の全てを思いのままにできる。この程度の呪いなど、造作もないこと」
「万能なら、姫の体から出ていけ! 俺が憎いなら、いくらでも苦しみを引き受けてやる! 姫は、関係ない!」
「お前を苦しめるために、この女は必要不可欠だ。私がこの体を支配していることが、お前の苦しみになるのだからな。大した力もないが、このまま使わせてもらおう。ただし」
必死にしがみつくように、竜が言葉尻を繰り返す。鬼神が、さも愉快そうに目を細めた。
「機が熟したら、この女の人格を喰べ尽くして、体をいただく」
真っ白な脳裏に、稲妻が走った。
ますます、鬼神の目が細くなる。
「機が熟したら……ってなんだ、いつだ」
「さあ。今でもよいが?」
「ふざ……けるな……!」
竜は、自分の顎を掴む細い手首を握った。硬く、浮き出た筋を感じる。姫が支配されていることが、肌を通じて伝わってくる。竜は、黒い憎悪を瞳に宿した。
「俺は、この石に花を咲かせる! そしてお前を、姫の体から引き剥がす!」
「いいだろう。しかし、お前が考える以上に、この花は多くの鬼どもの魂を吸収しなければ咲きはしない。一生かかっても蕾のままだった鬼人を、私は何人も見てきた」
「俺は、やり遂げてみせる!」
「意気のいい。だが、願いを叶えるとは、力を自らの理想通りに解き放つこと。魂の器に不相応なお前の願いなど、魂が耐えられず命を落とそう」
竜は、左手の中の白い手首を、一層、力を込めて握った。憎しみでなく、愛しさが温もりにこもる。
「俺が生きているのは、姫を幸せにするためだ! なんだってする! 魂だって、命だって、くれてやる!」
鬼神の目が大きく開き、憎悪で真っ赤に燃え上がった。竜の手が、稲妻に叩かれたように、少女の手から弾かれる。バランスを崩した竜の首が細い両手に囚われる。力いっぱい絞め上げられながら、体が持ち上がっていく。
「憎い……憎い憎い憎い憎い憎い……! あの男と同じことを言うか! 同じ言葉で、侮辱するか! 憎い憎い憎い憎い憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎い……!」
首の骨が、筋が、器官がつぶれる。壊れる。口の中に、血の味が広がる。
ぎゅっと目をつむった途端、竜は気を失った。
朝日が窓に差し込むと同時に、自分のベッドの上で目を覚ました。姫の部屋側の窓は閉まっていた。
夢だったのかもしれない。むしろ、夢であることばかりを願った。
だが、それは叶わなかった。
姫も、家族も、今まで幼馴染だった二人を、双子の姉弟と信じ込んでしまっていた。
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