門限を二十分も過ぎても、玄関は閉まっていなかった。彼らは軽く汗を流してから、各々怪我の処置を施した。
雫は、咄嗟に腕で顔を守っていたため、幸い、顔に傷はついていなかった。その分、腕にも腹部にも脚にも、何重もの切り傷が刻まれていたが、傷口は既にふさがり、消毒をしてもさほど染みなかった。
全身の消毒を終えて、雫は布団に倒れこんだ。打ち付けた背中の痛みをじんわり感じながら、天井の木輪を眺めていると、視界に黒い毛玉が映りこんだ。
「雫。助けてくれて、ありがとな」
「こちらこそ。陽くんに救われました。……伊達 光くん。彼が、陽くんのおじいさんのお弟子さんだったとは、驚きました。希望が見つかって、本当によかったですね」
陰陽術を使っていたということは、陽にかかった術を解いてもらえるかもしれない。
陽も、期待していた。だが、不安もあった。もしまた、できないと言われてしまったら―。
陽は、雫の頭にぴったりくっついて体を丸めた。
「……なぁ。一つ、聞いていいか?」
「はい」
「雫の鬼人の力って……取り出した魂を他の体に移し入れるとかって、できるのか? 例えば……例えばの話だけど、俺の魂を、別の人間の体に、とか……」
「一度試したことがあるのですが、できませんでした。それができれば、陽くんを人間の姿にと、僕も考えたのですが……お力になれず心苦しいです」
「えっ、やったことあるの? あぁ、いやぁ……いいんだ。俺もさ、姫には猫のままでいいなんて言っちゃったけど……。でもやっぱ、猫のままだと、できないことが多い。姫のこともそうだけど、雫の力にもなれない。人間の姿になったって、変わらないかもしれないけど、でも、体を支えたりとかはできただろうし……」
雫は、陽のやるせないツヤツヤの背中を、指の背で撫でた。
「今朝、シグレが四鬼の一体である、という話をしましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。四鬼の一体に、|隠形鬼《おんぎょうき》という鬼がいるそうです。隠形鬼は、魂のなくなったもぬけの殻の人間や鬼人に乗り移る力を持った鬼だといいます。シグレは隠形鬼からその力をもらっているために、人間の皮を被っていられるのです。鬼も鬼人も、源は同じです。もしかしたら、隠形鬼と同じような力を持った鬼人がどこかにいるかもしれません。伊達くんでさえこの術を解くことが難しいようであれば、そのような力を持った鬼人を探しましょう。大丈夫です。きっと、もとに戻れますよ」
陽は、「ありがとな」と笑った。雫の優しさが、折れそうな心の芯を支えてくれた気がした。
雫は微笑みを唇に浮かべ、重い瞼を閉じた。
「陽くんは、本当にお優しいですね。姫さんのことのみならず、僕のことまで気にかけ、心を痛めてくださっていたなんて。……僕は、この時代に目覚めてよかった。あの時、病院で、陽くんが僕のことを友達と言ってくれた時、心からそう思いました。はじめて友達と言ってもらえたので、本当に、嬉しかったのです」
胸が痛くなった。自分なんかが何の気もなしにつぶやいた「友達」という言葉で、こんなに幸せそうな顔をするなんて。
断片的に聞きはしたが、底知れぬ暗い過去を抱えているのかもしれない。
聞いたら、傷つける気がした。
その一方で、「友達」と断言したのに、知らないこと、知りたいことをそのままにするのは失礼な気がした。
「あの……。もう一個、聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「電車の中で、三十年前のこととかシグレのこととか、雫、いろいろ話してくれたじゃん。なんか俺、友達っていっちょ前に思ってたけど、雫のこと何にも知らないなって。だから、いやならいいんだけど、教えてほしいんだ。ほんと、いやならいいんだけど」
雫は瞼を開けた。黄金の、真摯な眼差しが、心の中に注がれる。
「……陽くんの、こういうまっすぐなところが、姫さんの心を掴んでいるんでしょうね」
穏やかに微笑んだ雫の顔は、しかし、すぐに曇った。
「陽くんがお望みなら、お話します。ですが、僕の話は、この世のどの物語より、おぞましく、汚らわしい。いやな気持ちにさせてしまうかもしれません」
危機に瀕して声を上げた時より、メイゲツを睨んだ時より遥かに、嫌悪や憎悪で濁った顔をしている。人間のこんな表情ははじめてで、竜に殺意を向けられた時以上に、背筋が凍った。
だが陽は、「聞くよ」とうなずいた。
引き戻ることは、もうできない。したくない。
雫は静かに、話し始めた。
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