十九時。街を燃やすような夕日の頭が沈んでいく。朧月が、ゆっくり浮かぶ。
鎌倉市のはずれにある三鉄財閥の別邸に、彼らは行き着いた。明治時代の洋館だろうか、まるで外国の宮殿のようだった。小さな煉瓦が敷き詰められた黒い壁に、いくつもの大きな窓が並ぶ。どの部屋にもぼんやりと、淡い明かりが揺れている。竜は、邸を睨み上げた。
――フジョウ、イル……イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ……。
心の底が、震える。心臓から、水が、力が、あふれだす。抗えない。
眼球まで、たっぷり力が染み渡る。右手中指に、蕾が萌える。角と牙が生え、煙をまとった太刀が顕現する。
意識が、深い、水の底に沈んでいった。
竜の体が、右後方を向いた。二十メートルはある樹のてっぺんに、少女が座っているのが、水面のように揺らめく瞳に映った。
「およ? 早いな、見つかっちゃった」
少女は、ひらりと舞い降りた。落下の直前に金色のガラスの板のようなものを出現させ、衝撃を防いだのが見えた。
おかっぱの髪をさらりと揺らし、彼女は笑った。
「こんばんは。僕は金鬼ライゴウ。僕のママを奪いに来たんだってね? 殺していいのは、どれかな?」
目が赤く光った――と思った矢先、白い制服が、光の目の前に移動していた。
「まず、これだよね?」
少女のこぶしが、光のみぞおちに入った。光の体は、目で追えぬほどの速さで鉄門の外側へ吹っ飛ばされた。
「光くん!」
「これも、殺っていいよね!」
少女は、雫の右隣に移動していた。わき腹に食らわさんと、肘を振り上げる。雫は間一髪で鬼人と化し、父母の魂を氷色の盾にして、衝撃を防いだ。
同時に、青い閃光がライゴウを襲った。ライゴウは目もくれず、背中に金色の鎧を出現させる。
だが――ザクリ、といやな音が響いた。
ライゴウは、振り返った。防いだはずの青い刃が、金色の鎧を貫通していた。白い背中に赤い染みが広がる。
冷たい。熱い。痛い。痛い――。
ライゴウの視界から離れた雫は、父母の魂を槍に変え、すぐさま突いた。だがその先端は、黄金の瓦に当たるだけで傷さえつけられない。ならば、一撃を重くするのみ。雫は槍を薙刀に変え、刃を振らんと腕を引く。竜の腕も、同時に動く。
ライゴウは舌を鳴らし、怒りに燃える目を上げた。三十、四十もの瓦の束が、少女の体を取り囲む。迫りくる前後の刃を、かつは弾き、かつは阻む。その隙に、ライゴウは上空へ跳んだ。ひらりと身を翻すと、足元に浮かんだ黄金の瓦を蹴り、二つの切っ先の届かぬ距離に着地する。
「それが、蒼龍刀か。へぇ……僕の鉄壁の守りを貫くなんて、すごいね? でも、なんかむかつく」
赤い瞳が妖しく閃く。その刹那、ライゴウの体が、金色に輝いた。全身に、まばゆい鎧がまとわれていく。全てが体に貼りついた時、黄金の拳が、ガチャリと開いた。
「僕を傷つけたんだもん。首の骨折ったって、ママは許してくれるよね?」
竜と雫が、武器を持つ手に力を込めた時、玄関の両開きの扉が、勢いよく開いた。
「ライゴウ、まぶしいぞ。お母様は、明るいのを好まれない。早く終わらせろ」
「あぁもう、うるさいなぁ、サテツは! せっかく今盛り上がってきたとこなのに。先にママに喰べられて待ってて!」
奴の視線が後ろに注がれている隙を突き、竜の体は地面を蹴って、ライゴウの体に青い刃を振り下ろした。しかし鎧の前に、二十、三十、四十もの輝く瓦が出現し、青い刃の進行を止める。ライゴウが、ニヤ、と余裕の笑みを浮かべ、ゆっくり竜に向き直った。一層まばゆく、鎧が金色を解き放つ。
サテツは、呆れ混じりのため息をついて、踵を返した。
「陽くん、僕たちは中へ行きましょう!」
ライゴウは、竜に任せられる。鬼神がサテツや神宮団員を喰らい、力をつけるのを阻止しなければ。
雫は陽を小脇に抱え、玄関に向かって飛び出した。
――その時。
「吹っ飛べ――!」
思いも寄らない光の咆哮が、強風とともに迫りくる。
雫の背中が、勢いよく押し飛ばされた。
着地の瞬間に薙刀を振り下ろすとか、盾に変えるとか―衝撃を回避する方法はいくらでもあった。だが、回転の速い雫の頭が回る間もなく、雫はサテツに激突した。サテツは背後からの衝撃に体を押され、玄関に飾っていた巨大な壺に頭を打ち付け、倒れた。壺は、独楽の最後の一回りのように大きく一回転をすると、床に落ちて木端微塵になった。
雫は即座に身を起こし、下敷きにしていたサテツから離れた。動かないことを確かめながら、慎重に距離をおく。
「……陽くん、先に行ってください。姫さんを探しに。僕も後から追い付きます。くれぐれもお気を付けて」
「分かった! 姫の場所が分かったら、戻ってくる!」
陽は雫の腕から抜け出し、尾をひらひらさせて、暗闇の中に音もなく溶けていった。
スーツ男は、ピクリとも動かない。雫は、手中の薙刀を|戦棍《せんこん》に変え、構えた。
直後。背後に、長い影が伸びた。振り向くと、月光を背に浴びて、金色の髪が輝いていた。
「あの団長を止めたいんだろ? 決着つけてこいよ。ここは、俺がやる」
雫は、さらりと微笑んだ。
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
うなずきを交わし、雫は、曲線状の階段の先へ消えていった。
ややあって、スーツの背中が、ゆらりと動いた。
「火鬼サテツだな? てめぇはここで、俺が食い止める!」
光は紙人形を指に挟み、印を切った。力を込めて、唱える。
「式神、捕縛! 急急如律令!」
紙人形が、サテツの背中に鋭く伸びる。だが、彼に触れる、一センチほど手前。列をなした紙人形は火縄と化して、高級そうな赤いカーペットに力なく落ちた。玄関に、炎が回る。
毛穴までくっきり見えるような熱い炎に照らされながら、サテツは首だけくるりと向き、光を睨んだ。しわが深く刻まれた目元には、赤い瞳が浮かんでいる。額からは一筋、血が流れていた。
「風を起こしたのは、貴様か。扉も壺も構わないが、見てのとおり、額に怪我をして、スーツについてしまった。これからお母様の供物となるはずの姿を、汚してしまった。弁償してもらう。その、命で!」
サテツが両手を広げると、玄関を燃やし始めていた火が、手のひらに集まってきた。大きな火の玉が二つ、光の目に映る。
竜の攻撃をかわすライゴウが、キャハハ、と黄色く笑った。
「体を取り替えるなら、僕は逃げた方の子、推し」
「言われるまでもない。すぐに追い付く」
火の玉が、光めがけて降りかかった。
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