二時間後、十八時。
捕らえられていたフードの男が脱走したという報道が、速報で流れた。
「だめ!」
竜の部屋に、姫の叱咤が鞭のように鋭く響いた。
廊下からは、しくしくすすり泣く竜の母の声と、それを慰める姫の母の声が漏れ聞こえてくる。
いったんは自宅に帰った姫だったが、竜の母が、「竜が、犯人を殺しに行くって言ってきかないの! お部屋にいれてももらえないわ……。姫ちゃん、助けて!」と泣きながら家に飛び込んできたので、急いで竜の部屋に駆け込んだのである。
竜はちょうど、シャツを脱ごうとしているところだった。姫は、手のひらでぱっと顔を覆った。
「ちょうどいい。行くぞ、姫」
「行かないわ。竜も、行っちゃだめ。いくら蒼龍の力があるからって、そんな怪我を負って、四鬼と戦えるわけがないわ」
「あいつは四鬼じゃない。俺を襲った時、あいつはいろいろとしゃべり過ぎた。人間社会に溶け込めるほどの暗殺鬼が、そう簡単にべらべらしゃべるわけがない。あいつは、隠形鬼の力を持った下っ端というところだろう」
「さっきはそんなこと言ってなかったじゃない」
「あいつらが次から次へといろいろ話すから、言うタイミングがなかったし、麻酔でぼんやりしてた」
「でも、四鬼である可能性だってあるでしょう。とにかく、今日は休んで。お母さんに心配かけちゃだめ」
竜が、チャックを上げ終えた。その音を合図に、姫は、ぱっと両手を開き、竜の右腕を捕まえた。左腰を支え、やさしく、ベッドに座らせる。
「姫。鬼人の体は人間より強い。この程度の傷はそれほど痛くもないし、もうほとんど治ってる」
「そうかもしれないけど、でも、心配なの。お願いよ、竜……」
姫が苦しそうに、声と瞳を震わせる。
竜は目をつむって、温かな息を吐いた。
いつもなら、ここで折れてしまう。どうするか――。
「おぉーい。斎王 竜くーん。この家にいるんだよねぇ? でてこ―い。……でてこいよぉ―!」
突如、外から、気のふれた声が聞こえてきた。廊下にいた二人の母が、「キャッ」と小さな悲鳴を上げる。
竜は咄嗟に、姫を引き寄せ、抱き込んだ。どちらともない鼓動の音で、体が振動する。
竜は、声の方向に背を向けて、全神経を耳に集中した。
「待たせんじゃねぇよ。とっとと出てこい。てめぇがこの家にいるのは分かってんだ。血のにおいがプンプンするんだよなぁ。……おぉい、早くしろって。じゃねぇと……この家壊すぞ、おぉい!」
ガンッという破壊音が、聞こえてきた。コンクリートが砕ける音だ。家の塀が破壊されたのだろう。
廊下にいる竜の母が悲鳴を上げる。姫の母が冷静に、警察に連絡をする声も聞こえてくる。
姫は、ぐいっと竜の胸を押して、「雫くんに連絡するわ」と、スマホを取り出した。
「向こうから来たからには、戦う他ない。行くぞ」
「私……いたって、足手まといになるだけだわ。怪我を負っているのに、私を守りながら戦ったら危ない」
「さっきも言ったが、俺はあいつが下っ端だと考えている。だが、あんなに頭の悪い下っ端一人をこしらえているとも考えられない。隠形鬼の力を持った鬼は、複数いる可能性がある。ここに姫を残していったら、姫が危ない」
「そんなはっきりしない可能性にかけて、竜が危険になる必要なんてないわ!」
「いいから、俺に姫を守らせてくれ!」
姫の肩を包んでいた竜の手に、強い力がこもった。
姫は、はっと息を呑んだ。
竜は、今、怖いに違いない。歩いているだけでも気が休まらないのに、家族だって疑わなければならない。とても孤独な状況だ。学校でも一緒にいられる最も近い存在は、唯一、姫だけなのだ。
孤独な心の拠所は、今、きっと、自分しかいない。
再び、コンクリートが破壊される音と、男の奇声が響いた。
竜は、姫の右手首を掴んで、立ち上がった。
「必ず、守るから」
姫は言葉を失い、ただ引っ張られるままに、しかし足手まといにならないように、全力で竜についていった。
大粒の雨は、いつのまにかほとんど上がり、上弦の月が雲間から覗いていた。
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