六月中旬。武蔵市立武蔵高等学校。白い校舎は梅雨雲に包まれ、わずかな水滴に濡れている。学校中の教室が、静寂に支配されていた。焦りと、迷いと、願いと、熱と、ペンの音が入り乱れる、重く、刺々しい静寂に。
やがて、時計の秒針が、十二を指した時。
「やめ!」
声を合図に、ほっと安堵し胸を撫でおろす者、後悔で頭を抱える者のため息が混ざり合う。
そして、教員が、「これにて、終わり」と言うと、全校生徒、総勢一二〇〇人が、歓喜の雄たけびを上げた。
「やったぁ―!」
「終わったぁ―!」
四日間にわたる定期テストの最後をようやく迎えることができたのだ。どうして喜ばずにいられようか。
ガッツポーズを振り上げる者、どろどろに溶けて机にへばりつく者、一抹の不安を分かち合う者。そして、ぱあっと遊ぼうと声を掛け合う者。彩もその一人であった。
「やーん。姫ちゃん、おつかれ! やっとおわったね! ぱあっと遊びに行こ!」
姫は、にっこり笑った。時計を見ると、まだ十一時だ。
「行きたい。十六時半から陽と約束しているから、それまでなら遊べるわ」
「じゃ、イツメンで行こ!」
彩が、友人二人に声をかけに行く。姫はスマホで、さっとメッセージを送った。
ランチの場所はどこにしようか、その後何をしようか。
テストの手ごたえ、分からなかったところの答え合わせ。
四人であれこれ話をしながら下駄箱に向かうと、学生服の男が、玄関扉のガラスにぼうっともたれかかっていた。姫の隣にいた三人が、「お?」と口の形を揃える。
「竜、お疲れ様。さっきメッセージ送ったんだけど……」
竜は、ポケットからスマホを取り出すと、軽く操作した。
「遊びに行くのか。あまり遅くなるな」
「大丈夫よ。じゃあね」
とぼとぼと歩いていく広い背中を見送りながら、姫は、靴箱に指を伸ばした。すでに靴を履きかえていた友人二人が、にやにやと姫の腕をつつく。
「いつ見ても、竜くんの愛は深いですなぁ」
「あまり遅くなるな!」
「そういうのじゃないってば」
姫が苦笑する。そこに、ちょうど雫が通りかかった。
「ヤッホー、雫くん。テストどうだった?」
「お疲れ様です、彩さん。姫さん、みなさんも。テストは、どうでしょう。特に問題ないかと思います」
雫が振りまく余裕の微笑みに、友人二人は、一気にそちらに釘付けになった。
姫はつつかれていた腕をそっと、手のひらでさすった。
「雫くん、これから帰る? 竜が一人で帰っちゃったから、よかったら一緒に帰ってあげて」
「本当ですか。頑張って追い付きます。それでは、失礼します」
雫は、ローファーの爪先をトンと整えると、ふわりと微笑み、髪をなびかせ、颯爽と走って行った。
友人二人は、輝く走り姿が米粒になるまで、釘付けになっていた。
彩だけは、靴を履き替える姫を、ニヤニヤ見つめ続けていた。
「やっぱり、姫ちゃんからの愛も深いですなぁ」
「そんなことないってば……」
姫は、つんと唇を尖らせた。
外の曇り空とは正反対の、晴れ晴れと明るいカフェでパスタを巻きながら、女子高生四人は思い思いの言葉で互いをつなぐ。今日は特に、恋バナばかりが咲いていた。学校からここまで、雫の話でもちきりだったが、ふと、一人の友人がミートソースを巻きながらぼやいた。
「ほんと、いいなあ、姫は。あたしも、竜くんみたいな彼氏ほしい!」
「竜はただの幼馴染よ」
「幼馴染でもさぁ、毎日一緒に学校通ってるし、帰りもいっつも待っててくれるじゃん。そういう風に愛されたい!」
「ただ家が隣だからそうなってるだけよ」
「いや、もう何度も言うけど、はたから見たら、絶対竜くんは姫のこと好きだからね!」
姫は、静かに水を飲んだ。
彩がボンゴレ・ビアンコの貝の中身をフォークで突き刺し、「うぅん」と唸る。
「でも、ずっと謎なんだよねぇ。なんで姫ちゃんは竜くんじゃなくて、陽くんなの? 私、竜くんが、姫ちゃんと一緒の高校に行くって一生懸命頑張ってた時、絶対竜くんの方が姫ちゃんを幸せにできるって思ったよ?」
竜が、姫と同じ武蔵高校を志望していることが発覚したのは、九月の三者面談後のことだった。志望動機を聞いても、「行きたいから」としか言わなかったが、とにかく竜が受かるように、姫は全面的に協力をした。武蔵高校は市内で一番偏差値の高い進学校である。定期テストで全教科七十点台の竜が受かる場所ではない。だが、地頭が良かったのか、火事場の馬鹿力を発揮したのか、竜はなぜか合格を勝ち取ったのである。
姫は、「彩はずっと、アンチ陽なの」と、友人二人に苦笑を投げかけ、小さなとぐろを巻いたジェノベーゼを口の中に入れた。友人たちは鼻で笑い、「まあ、彩の気持ちは分かるわ」と、パスタを吸い込んだ。
「姫の彼氏のこと、写真でしか見てないから分からないけどさ。顔で選ぶなら竜くんだよね」
「それはあるね。最初はなんか怖くて直視できなかったから分からなかったけど、よく見ると顔、整ってるもんね」
「この前、あけみ先輩が告ったんでしょ」
――カチャン。
金属音が、店内に響く。姫のフォークが大きく、一回転をした。緑色のソースがべったりとついた皿の上で滑ってしまった。
どきん、どきん、と体が揺れる。まるで、体がまるごと、心臓になってしまったように。
「姫、大丈夫? 目がこぼれそうになってるけど……」
「え、姫、もしかして、聞いてなかったの? 竜くんから」
ショートカットの友人が、食べようとしていた一口分のペペロンチーノをスプーンに置いて、目と口を丸く開いた。
「まじ? 二週間前くらいの話だよ。あけみ先輩が竜くんのこと狙ってるのは結構有名だったけど、テスト勉強始まるあたりで、『テスト終わったら返事ちょうだい』って言って告ったんだって。そしたら、『は?』って一言いわれて、終わりだってさ」
「うわ、それめっちゃ心折れる……」
姫は、鼓動が響いたままの体から、なんとか、「そう、なんだ……」と絞り出した。
向かいに座る彩が、フォークを置いて、焦点の合わない姫の瞳を覗き込んだ。
「姫ちゃん。……今、どんな気持ちなの?」
目を上げると、彩は珍しく、真面目な顔をしていた。
姫は、動いたり、きゅっと締まったりする忙しい胸に手を当てて、しばらく考える。
そして、一縷の切なさを含んだ微笑みを浮かべた。
「なんだろう……。今まで竜が、そういう風に、誰かに好きとか、かっこいいとか言われたことってなかったから、不思議な気持ち」
友人たちは、「そうなんだ」「意外だね」と顔を見合わせる。
彩は、しばらくじっと姫の顔を見つめていたが、ややあって、パスタを巻いた。
「ま、いいけどさ。もっと、自分の気持ちに素直になりなよ。それが、姫ちゃんの幸せにつながっていくと、私は思うよ」
姫は、緑のオイルがべたべたに絡まったフォークを見つめた。
――分かっている、自分の素直な気持ちは。
考えて、考えて、考えてきた。
何度も、何度も、何日も。つぶれてしまいそうな胸の痛みに耐えながら。
もう、答えを持っている。
これが自分の素直な気持ちだ。
嘘なんて、少しもついていない。
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