戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月30日(金) 20:00
文字数:2,896

 気付くと、上も、下も、右も、左もない、真っ黒な世界にいた。

「ずうっと、ずうっと、お前が来るまで、お前を苦しめるのに一番良い方法を考えていた」

 クスクス、ケタケタ笑う声が、四方八方から聞こえる。鬼神の姿は、どこにも見えない。

 刃に巻き付いていた蒼龍が、後方を見て、大きく咆哮した。

 竜が振り向くと、姫が立ち尽くしていた。鬼神と同じ黒い着物を着ているが、鬼神ではなく、姫だと分かった。

 姫は竜に気付くと、不安げな瞳を震わせた。

「竜……!」

「姫! そこで待ってろ!」

 姫に向かって走り出す。どれほどの距離があるのだろう。それほど遠くは見えないのに、いつまでも、いつまでも、二人の距離は変わらない。

 再び、四方八方から、鬼神の笑う声が不気味に響いた。

 姫の手の甲をつたい、青白い指が絡まる。肩から、赤い目をした鬼神がニタニタと覗いた。

「離れろ!」

「いちいちうるさい奴だ。まあよい」

 鬼神は竜の望み通り姫の体から離れると、ふわりと宙に浮き、足を組んで座った。二人の指が、透明の糸でつながっているのが見える。

 鬼神がこれ見よがしに糸を動かすと、姫の両手が黒い天に伸びた。

「お前は、この女を何より大切に思っている。自分の幸せも、命も、全てこの女にくれてやってもよいと思っている。そうまでして、この女の幸せを願い、この女が苦しまずに生きることを望んでいる」

 鬼神は、乱暴に糸を動かした。姫の両手が、自らの白い首を掴む。

「そうであるならば、この女が苦しむ姿を見るのが、最もお前を苦しめよう」

「蒼龍!」

 竜に応じて、蒼龍が猛る。牙を剥き、目にもとまらぬ一矢となる。余裕の笑みを浮かべる鬼神を、鋭い歯の檻が閉じ込める。しかし再び、四方八方からケタケタと声がした。

 幻影だ。やはり本体は、姫の右手中指の石。

 しかし、姫の手が首にある限り、巨大な牙でむやみに攻撃できない。竜は、鬼神の石を滅茶苦茶に壊してやりたい気持ちをこらえながら、暴れまわる蒼龍の力を、心の中で必死におさめた。呼吸を整え、冷静に、最善の方法を選び取る。

「蒼龍! 姫の手に巻き付け! 首から、引き剥がせ!」

 蒼龍が疾風のごとく飛び出した瞬間、姫の両手が首から離れ、すっと前に伸ばされた。両手のひらから、黒く、まがまがしい気の塊が膨らみ、まっすぐ突き進んでくる蒼龍を包む。一瞬、全てが白くなり、耳を壊すような爆発音がしたかと思うと、蒼龍を包んだ球体は木端微塵に吹き飛んでいた。

 姫は、「あっ」と小さく叫び、白い顔をした。

 だが、蒼龍は、右手で握った青い刃に、白い煙となって巻き付いていた。球体の中で煙に変わり、戻ってきたのだ。

 安堵する暇もなく、鬼神が姫の体を背後から抱きしめた。首筋に耳を当て、動脈の音を確かめる。

 唇の端が、ニヤリと吊り上がった。

「自分より人を傷つける方が苦しいか。よかろう。私も、お前を使ってあの男を傷つける方が面白いと思っていた」

 鬼神は姫に透明のナイフを握らせ、体から離れると、嬉々として指を動かした。

 姫は、引っ張られるように竜のもとへ跳んだ。見えないナイフを振りかぶって。

 竜は、その切っ先を見切り、するりとよける。

 しかし、姫の手は止まらない。振り上げられたナイフに触れて、竜の右頬が切れた。

「竜! いや、やめて!」

 姫は自らの手を操られながら、叫んだ。どんなに力を入れても、抵抗できない。どんなにいやだと思っても、ナイフを振る手は止まらない。

 竜は蒼龍刀でうまく弾きながら、苦痛にゆがむ姫の顔から目が離せなかった。何度かやってみたが、ナイフを握る力が強く、薙ぎ払うことはできない。受け止めて間をつくろうも、すぐに蒼龍刀からナイフを離して、新たな一撃を振るってしまう。

 だが、どうにか、止めなければ。これ以上、姫を苦しめるわけにはいかない。

 竜は降りかかるナイフを、右手で受け止め、握りしめた。姫の指をナイフから剝がそうと、蒼龍刀を捨て、自らの指をこじ入れる。だが、びくともしない。むしろ、ますます力が強くなっていく。竜の手のひらに、刃が深く押し込まれていく。竜の血が大きな粒になって、足元の暗闇に消える。

 姫の頬に、一筋の涙が流れる。もう一粒、こぼれそうな涙を飲み込んで、姫は叫んだ。

「やめなさい! こんなこと、無意味だわ! 竜は、あなたが憎む人じゃない!」

「そいつとあの男は、同じ魂。降りかかる罪は同じよ」

「違う! 竜は、竜よ! 私たちは、生まれ変わろうと、魂が一緒だろうと、この世界で生きている、別の人間よ!」

 ふっと、竜の手の中から、姫の姿が消えた。姫の声の跡だけが、果てのない暗闇に残る。

 振り向くと、姫が泣きそうな瞳で、自らの首にナイフを突き立てていた。

 鬼神の声が、また、どこからか響いた。

「蒼龍刀の君よ。額を付けて、許しを請え。それで考えてやろう」

 竜は憎々しげに黒い空を睨んだ。鬼神がついと指を動かしたのか、姫の両手が下がり――勢いよく、鋭利な先端が、細い喉に迫った。

「やめろ!」

 叫ぶと同時に、竜は、膝を折った。言われたとおりに、額を闇に押し付ける。地はコンクリートのように硬く、ひんやりとしていた。涙で震える姫の声が、胸の奥を痛くする。

「……許してくれ」

「何を」

 鞭で弾かれたような痛みが背中に飛んできた。傷口に冷たい空気が触れる。食いしばった歯の隙間から、息を呑みこむ。

 鬼神が求めているのは、自分の謝罪ではない。前世の自分の謝罪だ。

 言葉を急かして、もう一つ、鞭が飛ぶ。竜の名を呼ぶ、姫の悲痛な声が聞こえる。

 正しい答えが、分からない。だが、口を開いた。

「裏切ってしまったこと。申し訳なく、思っている」

 沈黙が流れた。

 ひた、ひた、と小さな足音が近づいてくる。ぴたりと止まった爪先が、竜の頭を小突いた。

「何を、裏切ったと?」

 分からない。欲しい言葉が、分からない。何について、許しを請えばいいのだ。

 やさしくつむじをつついていた足が、横暴に、竜の頭を横から蹴り飛ばした。竜の体が、冷たい暗闇で、力なく転がる。うつ伏せで止まったと同時に、後ろ髪を、ぐっと持ち上げられた。

 姫の顔をした鬼神が、蓮の咲く眼で、竜の瞳の奥を探る。

 程なく、淀んだ声が流れた。

「何も覚えていないか。うわべだけの言葉、反吐が出る。……そう。お前は私を傷つけた。ならば、私もお前を傷つけてもいいだろう」

「何を、する気だ……!」

 鬼神の嘲笑が、黒い空気を震わせた。

「この女の手で、世界を滅ぼしてやろう。友人、恋人、家族―全てを自らの手で滅ぼすのだ。その罪悪感でもがき苦しむ女を見て、お前は狂わずにいられようか」

 竜は、青い短刀を握りしめた。そして、みずからの頭を掴む右手――その中指の石に向けて、振り下ろした。右手の石から透明の蓮が出現し、石を守る。蒼龍刀にまとう白い煙が一瞬で浄化するも、姫の手は素早く、蝶のようにひらりと、竜の髪から離れて逃げた。


 確実に小さな石だけを狙おうとしても、隙がない。隙をつこうも、逃げられる。力は遠く、及ばない。

 短刀を握りしめながら、こぶしを、冷たい闇に打ち付ける。

 それでも、絶対に諦めない。奴は、姫を苦しめ、傷つけ、涙を流させた。

 絶対に――絶対に、奴を倒す。


 覚悟で燃える竜の体に、白い煙がまとった。

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