ほの暗い、長い廊下。赤い蓮のランプが、淡く、道の先を照らして並ぶ。
雫は息をひそめ、慎重に進んでいた。扉に近づくたびに、小さな息に耳を澄ます。どの部屋にも、人の気配はない。シグレはおろか、他の神宮団員とさえ遭遇しない。
「雫!」
雫の耳が、かすかな空気の震えを拾った。目を移すと、黄金の双眼が浮かんでいた。
「見つけた。あっちだ。姫も、シグレもいる」
雫はこくりとうなずき、真っ黒な水先案内猫に導かれた。
たどり着いた扉は、たしかに一際、重厚感があった。そっと耳を当てると、憂いを帯びたため息が聞こえた。
「陽くんは、ここで隠れていてください」
雫は、握りしめていた戦棍を両手で振り上げ、真っ黒な扉を粉々に打ち壊した。黒いかけらの先には、出窓に腰かけ、憂いを浮かべる黒髪の少女と、彼女に向かって片膝をつく青年の後姿があった。
「ずいぶん不作法ですね。来客のもてなしもないのですか」
「蝿にもてなし? 眺めるくらいで十分でしょう」
立ち上がったシグレが、首だけ振り向く。
雫はシグレに向かって、右手中指を突き伸ばした。赤い石から、細い花びらの百合――イヌサフランが赤々と咲いた。
「何を願うつもりですか」
「この力は、もとは鬼神のもの。それゆえ鬼神が許せる範囲で願うべき。四鬼であるあなたの、この教えは守りましょう」
シグレは雫に体を向けると、やさしく両手を差し伸べた。
「おやめなさい。せっかくの美しい花をドブに捨てるくらいなら、鬼神様に献上いたしませんか。私が喰らい尽くした、他の神宮団員たちのように」
「やはりそうでしたか。ならばなおさら、僕は、あなたを倒します。世界の滅亡を、止めてみせます」
そのために、溜めてきた。夜な夜な子を為し増え続ける鬼の――鬼人の魂をかき集め、喰べてきた。
決意は堅い。雫は、指に咲いた花を天高く伸ばし、声高らかに唱えた。
「僕は願う。鬼神に匹敵する力を!」
花はみるみる肥大化し、雫の右手を赤い花びらで包んだ。渦を巻いた角が、太く、長く成長していく。尖鋭な牙が鋭さを増していく。
瞳が赤く、輝いた。
雫は左手に持っていた戦棍をライフル銃に変え、ためらいなく、シグレに撃ち込んだ。シグレは俊敏によけた―と見えたが、弾は命を吹き込まれていたのだろうか、シグレの体を追跡し、右肩に直撃した。即座に、めり込んだ銃弾から、鋭く長い蜘蛛の足が八本生え、シグレの心臓を貫いた。
しかし。シグレの体は、破裂した。水滴となり、雫の体にまとわりつく。
雫の体に、わずかなしびれが走る。また、麻痺の薬か。二番煎じの攻撃に、雫は表情一つ変えない。赤い瞳をただ一度、きらりと輝かせる。
小さな稲妻が、水の粒の中で弾けた。
衝撃を受けて、水滴は、一斉に雫の体から剥がれた。雫の手の届かない距離で、再び人の形を成す。
二人は静かに、正対した。
「シグレ」
少女の声が、低く響いた。空気が、いや――時間が、凍り付いた。
鬼神が、赤い瞳を苛々と淀ませている。シグレはすぐに、片膝をついた。
「私の一番嫌いなものはなんだ」
「愛と、裏切りでございます」
「そう。お前は、私に誓った。私を信仰し、私に尽くすと。それを今、お前は、裏切ろうというのか!」
シグレは否定しようと、顔を上げた。憎しみにまみれた眼光に射られ、体中に刺さるような痛みが走る。シグレは呻きを噛み殺しながら、再び低頭した。
「恐れながら……私の存在理由は、鬼神様の悲願を果たすこと。どうして裏切りなどいたしましょう」
「ならばなぜ、あの男を攻撃しない。苛立たしい……愛を見せつけおって!」
鬼神の赤い瞳が、強い輝きを放つ。シグレの心臓が、締め上げられる。シグレは唇を噛み、胸を掴んで、静かに耐える。
ふっと、締め付ける力が弱まると、シグレは乱れた息を整えながら、掠れた声をこぼした。
「あなたを信仰する私が、どうして愛など、知りましょうか――……」
鬼神の右手中指の花から、透明のナイフが顕現した。シグレの爪先に、粗雑に放られる。
「愛ではないというのなら、信仰を誓い続けるというのなら――そのナイフで、男の首を取れ。この程度の鬼人が力を得た所で、四鬼の足元にも及ばぬ。証明せよ」
鬼神は棘のような声を吐き捨てると、ふいと顔を背け、窓の外、青白い満月を眺めた。
シグレは肩で息をしながら、黒い仮面で、自らを覆った。
水鬼シグレは、水を司り、雨や霧を生み出すことができる。
自他を水に変え、その姿を永久に、水循環の檻に閉じ込めることもできる。
シグレが、ゆっくり、ナイフを握った。瞳の奥が、赤く、ゆがんだ。
「我が存在は、我が主のために……!」
時間が割れる音がした。
雫の唇に、笑みが浮かんだ。
シグレは、即座に霧散した。部屋が白く曇る。
しかし、凍てつく感覚が体の奥に走り、咄嗟に人型に戻った。地に足を着いた瞬間、姿を隠すために生み出した霧の粒が、氷になって一斉に破裂した。
破裂音に潜んで、ライフル銃の軽い音が鳴る。だが、音さえ聞こえれば、目にするまでもない。銃弾はシグレの目の前で飛沫となり、床を濡らす。何発も、何滴も。
「煩い虫ですね」
シグレは再び霧散すると、一瞬で雫の鼻の先に移動した。雫が身を守ろうと振り上げたライフル銃の筒を、左手のナイフで受ける。そして、隙だらけの首を、義手で掴んだ。
「この程度で万能の力? 鬼神様と同等の力などと豪語して、おこがましいにもほどがあります。罰を与えましょう」
「どうぞ、ご自由に」
雫の目線が下がっていく。足元が、水になっていく。
膝が、腰が、胸が。肩が、腕が、シグレの手を掴んでいた指が、水になる――。
そして、透き通った笑みが唇から流れたかと思うと、雫の体は、飛沫を上げて、散った。
だが、まだだ。これは、体が水になっただけ。完全に、息の根を止める。
全ては、鬼神の望みのままに。この子を、殺す。我が主のために――。
「我が存在は、我が主のために!」
シグレは水たまりの前に膝をつき、ナイフを振りかぶった。
パン――と、軽い音が部屋中に響く。
赤い砂と、白い雪が飛び散る。
水たまりは消え、シグレの胸には、拳銃が押し付けられていた。
弾が撃ち込まれた傷口は凍り付き、細い空洞をつくっていた。
「終わりです」
雫はもう一発、撃ち込んだ。
この程度、造作もない。体は動く。
我が主の望みを果たす。我が主の命を遂行する。
だから、殺す。殺さねばならない。
五〇〇年間、信仰してきた。
鬼神の思想や理想を絶対的なものだと信じ、動いてきた。
それが、自分が四鬼として生まれた意味であり、生きる道筋だった。
自分の意志など関係ない。しなければならない。鬼神の望むままに。
それが、信仰。
だから、殺すのだ。殺さなければ、ならないのだ。
――それなのに。
シグレの左手から、ナイフがこぼれた。
そして、その指が、わずかに。本当に、わずかに。
雫の髪に伸びんとした、その時。
雫は、もう一発、撃ち込んだ。表情一つ、変えることなく。
シグレの体は粉々になり、ただ静かに、雪のように、降り積もった。
肩についたわずかな砂を払い、雫は、立ち上がった。爪先で、残された仮面をすりつぶす。
そして、にっこりと笑った。いつものように、穏やかに。
「あっけなかったですね。あなたに匹敵する力があれば、こんなに簡単なのですね」
「ほう。愛を知らぬはお前の方か。面白い。お前の忠誠なら、受け取っても良いが?」
「せっかくのお申し出ですが、お断りします」
雫は微笑みをたたえたまま、拳銃を泡に変えた。もの怖じもせず、彼女に近づいていく。
「さて。思いのほか早く終わってしまいましたので、斎王くんが来るまで時間が余ってしまいました。暇つぶしに、この力を試しましょう。鬼神に匹敵する万能の力。これで、あなたと姫さんを引き剥がせるかどうか……」
ゆっくり近づいていく雫に、鋭いガラスの破片が降り注ぐ。それらはたしかに体中に刺さったが、雫は微笑んだまま、全てを雨粒に変えていた。
鬼神の白い右手が、雫の指に掬われる。透明の花が、雫の手を消さんと包む。しかし、花は泡となり、儚く、部屋に舞い上がる。
雫の唇が、右手中指に咲き誇る、赤い蓮の花に触れた。たちまち花が肥大化し、みるみる形を変えていく。やがて赤い女の姿と化すと、姫の体が、力なく窓にもたれかかった。
「あなたが、鬼神ですね」
赤い体の女は、雫の頬を両手で包むと、ケタケタ笑った。
「思い上がりおって。お前程度では……ほら、もう限界だ」
限界? 何を言って―……。
心の声が、ぶつりと切れた。雫の目に映る景色が突然、万華鏡のように幾重にも重なり、回り始めたのだ。音も、鼓動も、何もかもがぐるぐる回る。
赤い女は、雫から手を離すと、雫の額をトンと押した。雫の体が宙に弧を描き、壊れた扉の残骸の上に転がる。陰から見ていた陽が、「雫!」と叫んで駆け寄った。
いつのまにか赤い女の体はなくなり、鬼神は、姫の顔で、無様なさまを眺めている。
「鬼の力は魂を源としている。力には、相応、不相応があるのだ。五分と使っていないのにこのざまとは、なんと哀れな」
鬼神は、声を殺して笑う。
雫には、この言葉が届かなかったのだろう。虚ろな目で、呼吸を探している。
「雫! 力を引っ込めろ!」
鬼の力は魂を源としている。つまり、雫が苦しんでいるのは、大きすぎる力に、魂が耐えきれていないからだ。
何度も何度も、叫んだ。八度目で、ようやく届いた。人の姿に戻った雫は、穏やかに、瞼を閉じた。
陽はほっとしたが、直後、いつのまにか入り口に近づいてきていた鬼神の姿に、身をすくめた。
姫と同じ顔なのに、なんて恐ろしいのだろう。言葉で言い表せない憎悪や執着、そういう黒いものの塊であるような気がした。
鬼神は、陽にも雫にももはや目を向けず、入り口の向こうに、ニヤリと笑いかけた。
「ようやく来たな。待ちくたびれたぞ」
蒼龍刀をたずさえた竜が、鬼神を見据えた。
「今日こそ、姫から離れてもらう」
青い刃に巻き付いていた小さな白い煙が、刃を離れた。そして、湖で顕現した時と同等の大きさに膨らみ、蒼い龍の姿になると、猛々しく吠え、威嚇した。
「おお、怖い怖い」
鬼神はケタケタ笑って、さっきまで座っていた窓の方へ、無邪気に踊り寄った。
両開きの窓を両手でめいっぱい開け、身を乗り出す。そしてそのまま、下に、落ちて行った。
陽は思わず、姫の名を叫んだ。
竜はすかさず、姫の体を追い、窓から飛び降りた。
落ちた先は茂みの上で、かすり傷さえつかなかったが、姫の姿が見当たらない。
あたりを見回していると、青白い月に照らされていた世界が、ぐにゃりとゆがんだ。
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