「着きましたよ」
こまかな霧が顔にかかる。アルコールのにおいが鼻をつく。
いつのまにか、「集中治療室 一」の前にいた。陽がひそひそと、「本当に覚えてないのか? 話かけられても普通に対応してたし、二〇五号室の佐藤さんがどうたらこうたらとか言ってたぞ?」と、二人に教えた。完全に催眠にかかっていたようだ。
雫は手早く、ノックを三回し、扉を開けた。
中には、一人のおじいさんがいた。ベッドであぐらをかき、ヘッドホンで音楽を聴きながら、ノリノリで演歌を歌っている。集中治療室にいるので重症かと構えていたのに。どっと気が抜けた。
三人は陽の祖父の視界に入ると、聞こえていないだろうが、一応挨拶をした。祖父は「おぉ」と言って、ヘッドホンを外した。
「新しい先生か。ずいぶん若いな」
「いえ、実は……」
姫がトランクを開けると、黒猫が飛び出した。祖父は、「のわっ!」と驚いて、跳ねた。
「じいちゃん! 俺だよ! 陽!」
祖父はくしゃくしゃの顔をゆがめ、「はぁ?」と言ってしばらく黒い毛むくじゃらと見つめ合っていたが、やがて、「お前、また印切って遊んだな!」と、小さな頭を平手で叩いた。
「お前には才能がねぇんだから、やめとけって言ったろうが! 知らんぞ、そんなん解く方法!」
「遊んでない! これはだな……」
陽は、猫になった経緯を語った。
一通り聞き終わるも祖父は、「どっちにしろ、戻る方法はない」ときっぱり言い切った。
「教えてもらおうと思って来たのに! せっかく雫が頑張ってくれたのに、水の泡になっちまうじゃんか……! なんでもいいから、教えてくれよ!」
祖父は大きく、ハァ、とため息をついた。二人のやりとりを見守る、白衣を着た三人の中学生を目に映す。
「このたびはうちのバカ孫が迷惑かけました。ほら、まずはお前、自分のことばっか話してねぇで、紹介せい!」
祖父は再び、陽をペチンと叩いた。陽は、むっとしつつも、従順に紹介を始めた。
「じいちゃんに一番近くてかっこいいのが雫。雫がいろいろ計画立てて、ここまで連れて来てくれたんだ。優しくてまじいい友達。隣の子が姫。俺の、その……彼女」
祖父が、今日一番の平手打ちを陽の頬にくらわせた。陽の左耳が、ベッドにめりこむ。
「失礼なこと言うんじゃねぇ! こんなべっぴんさんが、お前みたいなちんちくりんの彼女なわけねぇだろ!」
姫は慌てて、「おじい様、本当です!」と頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ありません。東条 姫です。陽くんとお付き合いさせていただいています」
祖父は、白目を剥いて、ふらりと後ろに倒れ込んだ。
陽は、ガンガンする頭部の痛みに耐え、最後の一人を横目で示す。
「……んで、端の奴が、斎王 竜。俺を襲ってきた奴。猫になっちまった元凶」
竜はぎろりと睨んだが、それ以上の剣幕で、祖父の黒目が睨みをきかせた。どちらも陽が標的である。
「お前な。こんなべっぴんな彼女がいて、無傷でいられるわけがないだろう。死ななかっただけでもいいと思え。身分不相応の刑だ」
そう言うと祖父は、頭からすっぽり布団に潜ってしまった。
姫と雫は、困り顔を見合わせた。
「あの、おじい様。私たち、陽くんを人間に戻す方法を調べようと、勝手ながら、書庫に入らせていただいていました。ですが、私のせいで……書庫を、大切な資料を、なんと言ったらいいか……凍らせてしまった、と言えばいいのでしょうか……。本当に申し訳ありません。ですが、もう陰陽道の情報を持っているのは、おじい様だけなんです」
「何か、手がかりだけでもいいのです。たとえば、猫や、獣の姿に変える陰陽術そのものについて、他の術を解く方法……。何か、ご存知ありませんか」
祖父は、布団にくるまったまま、しわだらけの目を覗かせて、美少女と美少年の期待の眼差しを鑑賞した。そして、むくりと体を起こして、「とにかく、座りなさい」と壁際にある丸椅子を顎で指した。
三人が腰をかけたのを確かめると、祖父は腕を組んで、フウと息を吐いた。
「まず、体が獣に変化する術。それは、ない」
めちゃくちゃに印を切って、火事場の馬鹿力で創作してしまったのだろう、と祖父は分析していた。
「だが、力を抑える術の一種と考えれば、封印術の可能性がある。封印術を解く術は、存在する。それを試す価値はあろうが、わしはもう、指が動かん」
祖父は、包帯でぐるぐる巻きの両手を見せた。命は助かったものの、指の神経を完全に断ち切られてしまっていた。
「しかし、わし以外に陰陽道を志す者は、もういない。神宮団に殲滅させられたからな。せめて、あいつがいれば……」
遠い目に、悲しみが泳いでいた。雫が小さく「あいつ」と反芻すると、祖父は首を横に振った。
「まあつまり、方法はない、というわけだ」
陽の心はすっかり鉛になっていた。姫は陽のくにゃくにゃの体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「なんだよ……。人間国宝、歩く資料とか言っておきながら、できないのかよ……。あの刀―蒼龍刀だって、鬼神を倒したとか言ってたくせに、こいつに真っ二つにされたぞ」
陽が震える声で毒を吐くと、祖父は冷たく、「あれは贋作だ」と答えた。
「まったく、お前もか。本物なわけないだろうが。お前がションベン漏らしてた頃、毎日語って聞かせたろ、『鬼いずる昔話』を」
「姫の前で恥ずかしい過去をばらすな! てか、何それ。全然覚えてないし……」
雫が瞳を輝かせ、語り部を買って出た。
『鬼いずる昔話』とは、鬼と鬼人を生んだ鬼神の物語である。
約五〇〇年前。世は人と人ならざらぬものにあふれていた。次第に、禍々しき妖怪どもが猛威を振るうようになり、武士や陰陽師が追い払うだけでは手に負えなくなっていった。そこで、陰陽師より強い霊力を持ち、妖怪どもに太刀打ちできる武士――「陰陽武士」が、妖怪退治に任命された。
ある若い陰陽武士の青年が信濃にたどり着いた時、藩主に助けを求められた。話を聞くと、藩主の娘が、湖の蒼い龍にさらわれてしまったという。哀れに思った青年は蒼龍と戦い、見事に娘を助け出した。娘はたいへんな美人で、二人はすぐに恋に落ちた。
青年は娘を妻に迎え、ともに旅をしながら、各地を妖怪の魔の手から救済した。妻は、不思議な力を持っていた。倒した蒼龍を彼の刀に宿し、妖怪を必ず討ち亡ぼす「蒼龍刀」を作ったり、手のひらに出現させた赤い花びらに吐息を吹きかけ、ささやかな願い事を叶えたりと、青年に尽くした。
青年の名声は高まり、「蒼龍刀の君」と呼ばれ、敬われた。
しかし、一年後。国に戻ると、名のある陰陽師たちが二人を取り囲んだ。そして、彼の妻が妖怪なのだと告げた。鏡に妻の姿が写ると、妻はたちまち、真っ白な妖怪に姿を変えた。
青年は葛藤したが、妻を、蒼龍刀で貫いた。妻は怒りで体を赤く染め上げた。地面が震え、ひび割れた隙間からは火が噴き上がった。そして、自分を裏切った男と、蒼龍刀を丸ごと飲み込み、息絶えた。
怒りと憎しみにまみれた妻の魂は爆発し、木端微塵になって、世界中に散らばった。
そのかけらを宿した妖怪が鬼となり、かけらを宿した人間が鬼人となった。
鬼と鬼人を生んだその妻を、人は、鬼は、鬼人は―鬼神と呼ぶ。
祖父は深くうなずいた。
「つまり、だ。伝説の通りであれば、本物の蒼龍刀は、鬼神に飲み込まれてしまっている。鬼神の一部になったということは、本物の蒼龍刀は、鬼人の力として顕現している可能性がある」
一斉に、竜に視線が注がれた。
「まぁ、話はそれたが、とにかく贋作のあれで鬼人に太刀打ちなんてできないって話だ。死ななかっただけ良かったと思って生きていけ」
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