戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年11月3日(火) 20:00
文字数:1,698

 コンコン、と窓を叩く音がした。夜、二十一時を回ったところだった。


 シャーペンを止めて、少し考える。

 開けようか、開けまいか――。


 もう一度、コンコン、と鳴った。

 少し考えて、姫は窓を開けた。蛙の声が、どっと入ってきた。

 竜が、「そっち、行っていいか」と聞いた。二人の部屋の窓は、手の届く距離だ。用事がある時は、竜が窓をくぐって姫の部屋に入る。

「私たちももう高校生なんだから、お互いの部屋に軽々しく入らないようにしようって、何度も言ったでしょう」

 数か月前まで受験勉強していた時は、互いの部屋を行き来していたのに。竜はそう言いたげに、少しむっとした表情をした。

「分からないところがあるんだが」

「ここで聞くわ。どこ?」

 竜が見せてきたのは、国語の教科書だった。『伊勢物語』第二十三段「筒井筒」。

 定期テスト終了直後ではあるが、明日の授業のために訳をしてくるよう課題が出されたという。

 姫はまだ読んでいないところだったが、軽く読んで、なんとなく内容を理解した。


 昔、あるところに、幼い少年と少女がいた。二人は、井戸の傍でよく遊んでいたが、大人になり、お互いに恥ずかしくなって、会わなくなってしまった。しかし、彼は彼女を手に入れたい、と思った。彼女もまた、彼のことを想っていた。


 竜は、ここまでは分かったという。

「『親のあはすれども』ってところから、よく分からない」

 竜が身を乗り出して、姫の手にある教科書の一文を指差した。額と額がくっつきそうになる。

 姫は一歩下がって、竜に単語帳を持ってくるよう指示をした。

「あふ」「妹」という単語を確認すると、竜は、「あぁ」と静かに合点した。

「結婚したのか」

「そうね」

 しかし竜は、自分の首の後ろを握って、目を細めた。

「この和歌が、よく分からない」


 彼のうたは、

「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」

 ―― 一緒に遊んだあの頃、同じくらいの背丈だった井戸の高さを、僕はもう越してしまいました。愛しいあなたに会わないうちに。


 彼女のうたは、

「くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき」

 ――あなたと競うように比べていた私の髪は、肩をすぎるほど長くなりました。あなたでなくて、誰がこの髪を上げて大人にしてくれるというのでしょう。


「昔の女性は髪を結い上げることが成人の証だったの」

 姫が付け足すと、竜は、「そうなのか」とつぶやいた。だが、腑に落ちないのか、首を傾げて教科書を睨んでいる。

「どうして、このやりとりをして結婚をすることになった? 背とか髪とかの話をして、大人になったって言ってるだけだろう。この和歌はつまり、どういう意味なんだ」

 姫は、解説をしようと思ったが、やめた。一生懸命考えているところに、自分の解釈で、水を差したくはない。

 じっと見守っていると、竜は小さく、「あぁ」と感嘆を漏らした。

「大人になったが、ずっと一緒にいたいっていうことか」

「そうね……」

 竜は、「なるほど、分かった」と言って、別のページをぱらぱらとめくった。他にも質問があるのかと思い待っていたが、なんとなくページをめくっているだけのようだった。

 竜は高校に入ってから、勉強をよく頑張るようになった。毎日、鬼退治をした後、二十一時までには帰って来て、姫に教えてもらいながら勉強をする。終わり次第、また鬼退治に出かけ、帰ってくるのは深夜か早朝らしかった。

 身体能力が高く、体力もある竜にとっては、戦いなど負担ではないのかもしれない。それでも、竜の努力を、姫は静かに尊敬していた。


 だからこそ、力になりたい。

 そう思ってきた。そう思っている。


 でも――。


「……竜。話したいことがあるの」

 竜は、目を上げて、教科書を閉じた。姫の長いまつ毛の影を見つめる。

 沈黙が続く。


 姫の心は、何かに強く掴まれているようだった。

 痛い。苦しい。声を出すことも、呼吸さえも、思うようにできない。


 ――突き放せない。


 このまま、突き放せない。このまま、ひとりにできない。

 ぎゅっと、組んだ両手を握りしめる。


「……クローバー」


 脳裏に、懐かしい形が浮かんだ。

 竜は、言葉を繰り返して、疑問符を付ける。

 姫は、うなずいた。


「四つ葉のクローバー、探しに行きたいの」

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