コンコン、と窓を叩く音がした。夜、二十一時を回ったところだった。
シャーペンを止めて、少し考える。
開けようか、開けまいか――。
もう一度、コンコン、と鳴った。
少し考えて、姫は窓を開けた。蛙の声が、どっと入ってきた。
竜が、「そっち、行っていいか」と聞いた。二人の部屋の窓は、手の届く距離だ。用事がある時は、竜が窓をくぐって姫の部屋に入る。
「私たちももう高校生なんだから、お互いの部屋に軽々しく入らないようにしようって、何度も言ったでしょう」
数か月前まで受験勉強していた時は、互いの部屋を行き来していたのに。竜はそう言いたげに、少しむっとした表情をした。
「分からないところがあるんだが」
「ここで聞くわ。どこ?」
竜が見せてきたのは、国語の教科書だった。『伊勢物語』第二十三段「筒井筒」。
定期テスト終了直後ではあるが、明日の授業のために訳をしてくるよう課題が出されたという。
姫はまだ読んでいないところだったが、軽く読んで、なんとなく内容を理解した。
昔、あるところに、幼い少年と少女がいた。二人は、井戸の傍でよく遊んでいたが、大人になり、お互いに恥ずかしくなって、会わなくなってしまった。しかし、彼は彼女を手に入れたい、と思った。彼女もまた、彼のことを想っていた。
竜は、ここまでは分かったという。
「『親のあはすれども』ってところから、よく分からない」
竜が身を乗り出して、姫の手にある教科書の一文を指差した。額と額がくっつきそうになる。
姫は一歩下がって、竜に単語帳を持ってくるよう指示をした。
「あふ」「妹」という単語を確認すると、竜は、「あぁ」と静かに合点した。
「結婚したのか」
「そうね」
しかし竜は、自分の首の後ろを握って、目を細めた。
「この和歌が、よく分からない」
彼のうたは、
「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」
―― 一緒に遊んだあの頃、同じくらいの背丈だった井戸の高さを、僕はもう越してしまいました。愛しいあなたに会わないうちに。
彼女のうたは、
「くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき」
――あなたと競うように比べていた私の髪は、肩をすぎるほど長くなりました。あなたでなくて、誰がこの髪を上げて大人にしてくれるというのでしょう。
「昔の女性は髪を結い上げることが成人の証だったの」
姫が付け足すと、竜は、「そうなのか」とつぶやいた。だが、腑に落ちないのか、首を傾げて教科書を睨んでいる。
「どうして、このやりとりをして結婚をすることになった? 背とか髪とかの話をして、大人になったって言ってるだけだろう。この和歌はつまり、どういう意味なんだ」
姫は、解説をしようと思ったが、やめた。一生懸命考えているところに、自分の解釈で、水を差したくはない。
じっと見守っていると、竜は小さく、「あぁ」と感嘆を漏らした。
「大人になったが、ずっと一緒にいたいっていうことか」
「そうね……」
竜は、「なるほど、分かった」と言って、別のページをぱらぱらとめくった。他にも質問があるのかと思い待っていたが、なんとなくページをめくっているだけのようだった。
竜は高校に入ってから、勉強をよく頑張るようになった。毎日、鬼退治をした後、二十一時までには帰って来て、姫に教えてもらいながら勉強をする。終わり次第、また鬼退治に出かけ、帰ってくるのは深夜か早朝らしかった。
身体能力が高く、体力もある竜にとっては、戦いなど負担ではないのかもしれない。それでも、竜の努力を、姫は静かに尊敬していた。
だからこそ、力になりたい。
そう思ってきた。そう思っている。
でも――。
「……竜。話したいことがあるの」
竜は、目を上げて、教科書を閉じた。姫の長いまつ毛の影を見つめる。
沈黙が続く。
姫の心は、何かに強く掴まれているようだった。
痛い。苦しい。声を出すことも、呼吸さえも、思うようにできない。
――突き放せない。
このまま、突き放せない。このまま、ひとりにできない。
ぎゅっと、組んだ両手を握りしめる。
「……クローバー」
脳裏に、懐かしい形が浮かんだ。
竜は、言葉を繰り返して、疑問符を付ける。
姫は、うなずいた。
「四つ葉のクローバー、探しに行きたいの」
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