目を開けると、赤い幕が目に入った。見覚えはない。その幕は天蓋で、自分はベッドに寝そべっているのだと、じんわりと理解する。記憶は、湖が枯れて、竜が戻ってきたところで途切れていた。あの後、何があったのだろうか。気絶でもしてしまったのだろうか。いずれにしても、ここは戸黒湖温泉の旅館でも、まして自分の部屋でもない。薔薇と百合の香りがする。
腰元に、小さな重みがある。陽だろうと思っていたのだが、頭がはっきりしてくると、人間らしい体温だと分かった。
上体を起こすと、はじめて見る、白いセーラー服姿の少女が、姫の腰に抱きついて眠っていた。おかっぱらしい髪をしているので幼く見えるが、自分よりも少し年上のようだ。高校生くらいだろうか。
「だれ……?」
姫の声に反応して、少女がパッと目を開く。そして、嬉しそうににっこり笑った。
「ママ! おはよう」
「ママ……?」
「僕だよ。金鬼ライゴウ。ママ、ようやく会えたね」
少女が、何が何だか分からないままの姫を、やさしく、愛しく、抱きしめた。
「ライゴウ様、御仕度の時間です。いったん御退出ください」
気付くと、部屋の扉の前に、長髪を丸くまとめた黒仮面の女が立っていた。反射的に心臓がばくんと跳ねて、体が恐怖に蝕まれる。
――そうか、神宮団に捕まってしまったのか。
現状は分かったが、どうしたらいいのか分からない。
震える姫をそのままに、ライゴウとかいう女子高校生は、「はぁい」と明るく返事をして、外に出て行ってしまった。
黒仮面の女が、足を一歩、前に出した。
「来ないで!」
おびえた表情の姫を前に、黒仮面の女は立ち尽くした。
「御入浴と、御着替えを手伝わせていただきたかったのですが」
「結構です。私を、帰してください!」
「それは、できかねます。鬼神様には、今晩、世界を滅ぼしていただきたく」
――鬼神。
この人は、今、自分に対して、言葉を発した。自分に対して、鬼神、と言った。
自分が捕らえられたのは、おとりでも、人質でもなく―。
姫は、こくんと息を呑んで、声を震わせた。
「……入浴は、一人でできます。一人にしてください」
女は、右の黒い扉を手で示し、「あちらです」とつぶやくと、また立ち尽くした。
赤薔薇が浮かぶ白い陶器のバスタブの中で、姫は膝を抱えた。
自分が、鬼神――。
「そんな」というショックもあったが、「やっぱりな」という気持ちもあった。
夜、知らないうちに眠っていたことや、朝起きた時、手のひらが何か強いものを握ったようにじんじんと痛むことがあった。昨日も、そうだった。竜のあの首の怪我は、記憶はないが、鬼神がこの体でやったのだろう。
鬼神の怒りは、蒼龍刀の君、つまり、竜の前世に向いている。
だとすると、ここにいた方がいいのかもしれない。竜を傷つけなくて済む。
しかし、このままここにいたら、鬼神は世界を滅ぼしてしまう。
鬼人の力さえ満足に使えなかった自分に、鬼神の存在を認知できない自分に、何ができよう。
壊れそうな心から逃げたくて、姫は生ぬるいお湯の中に顔を沈めた。
風呂から上がると、黒仮面の女がバスタオルを持って待ち構えていた。全力の抵抗も甲斐なく、体を拭かれ、着替えさせられ、髪を乾かされ、きれいにまとめられる。
顔が仮面で隠れているので分からないが、彼女の年齢は、姫の母と同じか、少し上のようだった。世話には慣れていない手つきだった。それでも、一つ一つ丁寧に、やさしく整えてくれた。髪は少しのほつれもなく、赤い蓮のかんざしで一つにまとめられている。痛みは、全くない。最後は、唇に紅をさされた。
自分の体のはずなのに、まったく違う人の体になってしまったような気がした。
「ありがとうございました」
姫がぺこりと頭を下げると、黒仮面の女は少し動きが止まった。ややあって、何も言わず、姫に手を差し伸べた。
姫は真っ黒のレースで仕立てられた着物を身にまとっていた。薄い打掛の、引きずる裾を踏まないよう、彼女の手を支えに、部屋へ向かう。
改めて部屋の中を見回すと、黒と赤を基調とした、レトロな内装だった。真ん中に置かれた赤い天蓋ベッドの両脇には、大量の赤薔薇と白百合が飾られている。天井には、七色のガラスが無数にきらめく、豪華絢爛なシャンデリアが吊るされている。
赤い錦のソファに、二人が座っていた。一人は、先ほどの女子高校生、ライゴウ。もう一人はベージュスーツの中年男性だった。オールバックの髪、金色の時計。スーツや靴、鞄も高級そうである。
そして、ソファの隣で片膝をついているのは、髪の長い、静かな青年。どことなく雫に似た、上品じみた微笑みが、口元に浮かんでいる。
――どくん。
心臓が跳ねて、彼女の手を、思わず強く握った。
彼は、シグレだ。
姫がその場で動けずにいると、ライゴウが、「ママ、かわいい!」とはしゃいで、姫に駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。
「ライゴウ! ずるい……いえ、失礼にあたるぞ。ひかえよ」
「あはは。サテツ、ずるいって言った。そうだよねぇ、中年男がこんな可愛い子に抱きついたら犯罪だもんね。甘えたいなら僕みたいに可愛い皮を被ればよかったのに」
スーツの男――サテツは、むっと顔をしかめ、まっすぐ立ち上がった。しかし姫を目に映すと、たちまちうっとり口元をほころばせ、鋭い爪先で姫に歩み寄った。
「ああ、お母様。お初にお目にかかります。四鬼が一体、火鬼サテツでございます。人の世ではこのような身分でございます。お母様を苦しめたこの世の者たちから何もかもを搾り取り、献上するために、地位、名誉、財産を集めてまいりました。どうぞ、焼くなり煮るなり茹でるなり、ご自由になさってください!」
差し出された名刺には、「三鉄財閥」と書かれていた。街でもテレビでもよく見かける上、社会の授業でも名前が上がるような、有名な財閥だ。彼は、その総帥であるという。この屋敷も、服も、仰々しく飾られた生花も、全て彼が準備したそうだ。
言うべきか否か分からなかったが、自分のためと言われては、感謝を言わざるを得ない。
「ありがとうございます」
サテツは、はっと目口を丸くした。そして、泣きそうになりながら、微笑んだ。
「五〇〇年生きた中で、最も……嬉しいお言葉でございます」
「いいなぁ。でも、いいもん。僕はこうしてぎゅうってできるから。前世も、その前も、その前も……ママは、見つけたと思ったら、すぐ死んじゃった。だから、嬉しいの。今日が最期でも、こうしていられるだけで嬉しい」
四鬼。鬼神の力をもっとも色濃く継いだ四体の鬼。そのうち三体がここに揃っている。
金鬼ライゴウと火鬼サテツは、鬼神を、母として慕っている。五〇〇年間も、いつか巡り合うことを待ち望んでいるほどに。
だが、水鬼シグレは違う。奴の望みは、鬼神が望む、世界の滅亡を果たすこと。
畏怖の眼差しを向けると、青年は、細い目を一層細くした。
「下がってよろしい」
黒仮面の女は姫の右手中指に口づけると、「我が存在は、我が主のために」と唱え、離れていった。
扉が閉まる音がする。だが姫は、彼女に声をかけることも、見送ることもできなかった。
ムスクのにおいが、近づいてくる。
目が回る。動機がする。息ができない。体中が冷たくなって、全ての感覚が失われる。
ただ、右手中指をのぞいては。
片膝をついたシグレが、姫の右手を掬い、信仰の口づけを捧げた。誓いの言葉をささやいて。
「我が存在は、我が主のために」
赤い眼光に、貫かれる。頭の中が、真っ白になる。姫の体はそのまま、ソファに導かれた。
意識がはっきりしてくると、螺鈿細工が施されたローテーブルに、紅茶が置かれていることに気が付いた。ライゴウがぷうと頬を膨らませ、「冷たいミルクティがいい。タピオカ入れて」とわがままを言う。サテツが、「ぬるい」と文句をつけて、一気に飲み干す。
シグレは姫の足元で、片膝をつき、低頭していた。立て膝の上の黒い手袋から、木製の手首が覗く。
「鬼神様。まずは蒼龍の件、お詫び申し上げます。消滅させることは叶わず、せめてあの男が蒼龍を手に入れないようにメイゲツをけしかけたのですが、失敗し、このような形となりました。しかし、鬼神様のお力を拝見し、確信いたしました。ここにいる我々神宮団と、ライゴウ、サテツの魂をお召し上がりになれば、鬼神様は再び、世界を滅ぼす力を得ることができるでしょう。日が沈んだら、我々は体を奉納いたします。どうぞお召し上がりになられて、思う存分、世界を滅ぼしていただけたらと」
はちきれそうな恐怖が、心を縛る。だが、このまま負けてはいられない。
姫は、がたがた震える体を力いっぱい左手で握りしめ、口から深く、息を吸い込んだ。
「……私は、鬼神は……世界を滅亡させようなんて、思っていないわ……」
「いいえ、思っていらっしゃいます」
「確信が、あるわ……! 鬼神は、今でさえ、強い力を持っている……。それなのに、今まで、何も、動かなかった……。本当に世界を滅亡させたいなら、自分で鬼を喰べに行くか、早々にあなたたちと、合流するはずよ……!」
「なるほど。ですが、鬼神様は、世界を滅亡させたいと思っていらっしゃいます」
絶対的な自信で二度も返され、姫は言葉を失った。
「鬼神様はおっしゃいました。人間は、他の種族を犠牲にしてでも、自らの命を、地位と名誉を欲する愚かな生き物だと。そのような生き物がはびこる汚れた世界は滅びるべきだ、と。このような尊い鬼神様の思想が変わることなどございましょうか。鬼神様の思想と理想は、永遠のものでございます」
サテツとライゴウも、うなずいた。
「お母様はあの男に尽くしていらっしゃった。それなのにあの男は、お母様を犠牲に、地位と名誉を取った。そんな汚らわしいもので汚れる世界を、どうして滅ぼしたくないなどお思いになりましょう」
「僕も、そう思うよ。だから僕たちは、ママを傷つけたあいつを、人間たちを、絶対許さない。僕たちは、ママの味方だもん。ママの理想を、果たそうね」
――だめだ。何も言い返せない。
説き伏せて、あわよくばライゴウとサテツに味方になってもらおうなど、甘かった。
ぎゅっと下唇を噛む。慣れない口紅の味がした。
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