戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月15日(木) 20:00
文字数:2,066

 目を離した隙に、竜は、書庫の方へ走り出していた。二人も、竜を追いかけて走る。

「姫さんが書庫に入った時、『伊勢物語』を思い出してしまいました」


 昔、身分の違いからか、決して結ばれない女を好きになった男がいた。ある時、男は女を盗みだす。女をおぶって必死に走る男は、はじめて外の世界を見た女の問いに答える余裕がない。夜が更け、雨が強くなったため、とある小屋に女だけを閉じ込めた。男は小屋の前で一睡もせず、門番をした。しかし女は、中に隠れていた鬼に喰べられてしまった。男は戸口にいたものの、雷の音で女の悲鳴を聞くことができなかった。男は嘆き悲しみ、「こんなことになるなら、君の問いかけに答えてそのまま消えてしまえばよかった」と後悔の歌を詠む。


「似てる……」

「はい。それでなんとなく、早くしないと、と思ったのです。書庫の戸締りをしっかりなさっていらっしゃいますから、現実には起こり得ないと思いますが」


 竜が慣れた手つきで鍵を開ける。扉が開かれると、蒸し返った空気が、どっと三人に迫った。


 そして、彼らは、息を呑んだ。


 真っ暗なはずの書庫内が、差し込む月明かりに照らされ、まばゆいきらめきにあふれかえっていた。

 きらめきの正体は、氷ともガラスとも水晶とも言い得ぬ、澄み切った透明の蓮の花だった。本も本棚も閉じ込めて、書庫中に咲き乱れている。

「姫! いるのか!」

 返事はない。竜はさっと血の気が引いた。なりふり構わず、得体の知れない花に手を伸ばす。ほんの爪先を掠めただけで、花は、中に閉じ込めた本もろとも、粉々に崩れ去った。

「斎王くん、落ち着いてください! 慎重に行かないと……」

「うるさい!」

「もし、この花に姫さんが閉じ込められていたら……!」

 竜は、真っ黒な眼光を、雫に突き刺した。

 しんと沈んだ空気の中で、深く、息を吐く。奥歯を噛む力が、わずかに弱まる。そっと、花びらの先端に、指先で触れる。力の加減を調整しながら、ゆっくり、着実に、体をねじ込み、前へ進んでいく。砂になって崩れた花の残骸が靴でこすれる。じりじりとした音が、いやに、緊張を煽る。呼吸一つ満足にできない。玉のような汗があふれて苛立たしい。

「姫、どこだ、返事をしてくれ……!」

 部屋の三分の二まで来た時、前方に、淡いきらめきが見えた。

 姫の、かんざしか?

 焦燥に駆られ、腕がぐっと伸びる。深く、深く、前へ、横へ、花が崩れていく。

 ようやく、姫の姿が見えた。うつ伏せで、倒れている。

「姫!」

 飛び込むように手を伸ばすと、あたり一帯の花が崩れ、巨大な透明の花に手が触れた。花は崩れなかったが、花びらの縁が刃物のように鋭く、竜の指から血が滴り落ちた。

 この花の中に、姫がいる。

 竜は右手に、刀を宿した。

「斎王くん……」

「話しかけるな。近づいたら、殺す」

 竜は恐る恐る、花びらに刃を当てる。少しずつ力を加え、強度を確かめる。そして、刃を、力いっぱい押し込んだ。金属がこすれ合うような、耳に痛い音が響く。

 斬り落とされた花びらは、床に落ちると、砂になって散らばった。


 あと五枚……四枚……。


 得体の知れない花を、息を止めて、慎重に、確かめながら、斬っていく。


 あと、一枚。


 ぐっと力を込め、斬り崩す。

 ガラス越しでぼやけていた紺色の背中が、鮮明に、足元に、露わになった。


 巨大な花の中心部分。人二人ほど入れそうな、円形のこの場所だけ、花が咲いていなかった。

 姫の指のすぐ傍に、おびただしい血だまりが広がっていた。

「姫!」

 血だまりに膝をつき、左手で姫の体を掬い上げる。やわらかく、温かさもある。浴衣が、汗で湿っている。だが、汚れはない。体には傷一つついていないようだ。しかし、揺らせど、名前を叫べど、一向に起きる様子がない。顔は妙に穏やかで、もしかして呼吸をしていないのではないかとさえ思う。焦燥に揺れながら耳を近づけると、熱を帯びた小さな吐息が、やさしく触れた。―よかった。わずかな酸素を思い切り吸い込み、安堵の息をつく。

 竜は額の汗を拭い、傷ついた右の手のひらをこぶしに閉じ込めた。姫の体を腕で抱え、もと来た道を戻る。

 たまらなくなった陽が、竜の足元に駆け寄った。

「おい、これって……鬼の仕業か? まさか、神宮団? 姫は、無事なのかよ?」

 竜は、黙って黒猫をまたぎ、雫を睨んだ。今にも掴みかかってやらんとばかりの殺気をこめて。

 しかし、今は何より姫が先だ。

 殺意を奥歯で噛み殺し、急ぎ、書庫の外へ出る。


 月明かりに照らされて、姫の右手が――右手の中指が、赤く光った。


「……そういうことですか」

 遠くなっていく竜の背中を見つめ、立ち尽くしていた陽が、雫を見上げた。

「姫さんはここで、敵に襲われたのでしょう。ですが、この花は敵の力ではありません。姫さんが鬼人に目覚め、この花を咲かせたのです」

「姫が、鬼人に……?」


 どうして、という言葉がふつふつ浮かぶ。


 色々な困惑が最後に生んだのは、どうして姫が襲われたのか、という疑問だった。


 だが、陽はもう、考えることができなかった。

 

 動揺の連続で、頭の中が真っ白になっていた。


 得体の知れない不安ばかりが、彼らの心に焼き付いた。

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