戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

十五

公開日時: 2020年10月12日(月) 20:00
文字数:1,958

 そうこうしているうちに、外の虫の音がヒグラシに変わり、鳥の羽音が集まってきた。

 十七時。夜が迫って来たのである。


 姫は、漢字とカタカナが混ざっていて、なんとか読めそうな本を二冊選んだ。古い時代の貴重な資料であるため、その他の本はいったん書庫に戻すことにした。持ってくる時は猫の手が借りられないため骨を折ったが、片付けは竜のおかげで大分楽ができた。二人で三往復したところで、残り一山になった。

「この一山は俺が運んで、鍵を閉めてくる。帰り仕度をしていろ」

 そう言って、竜は一人、書庫へ向かった。


 この家の貴重品や陽のスマホは最初のうちに回収しておいたので、帰り支度といっても、エアコンを消すだけであった。戸締りできない崩壊した玄関扉を抜けて、竜を待つ。

 書庫の鍵は古い上に錆びているので、開ける時も閉める時も、扉を上に持ち上げたり、鍵穴を下げたりしないといけない。てこずっていないだろうか。


 紅がかった紫の空に、白い月がうっすら浮かぶ。

 美しい夕空を眺めつつ会話をしていた、その時だった。


 ふわ、と甘い香りがした。


「おや。この家にお嬢さんはいらっしゃいましたでしょうか」


 頭上か、背後か。どこから声がしたのか分からないまま、姫の体は動かなくなった。むせかえるような甘い鎖に囚われて、指一つ動かせない。喉に、冷たく、鋭い感覚が当てがわれる。

 陽には、はっきりと見えていた。

 姫の背後に立つ、全身黒づくめの、髪の長い、黒仮面の男が。

 姫の喉元に立てられた、漆黒の刃が。

「シグレ……!」

「おや、そんなけだものになって。このお嬢さんは影宮家の親戚でしょうか」

「違う! その手を離せ!」

 黒猫が背を丸め、尾の毛を逆立たせ、牙を剥いて威嚇する。


 その時、疾風のごとき靴音がかすかに聞こえた。「あっ」と言う間に、社務所の屋根から、竜が駆けてきた。右手に―ガラスの破片だろうか、鋭い光が握られている。男の背後から躊躇なく、隼(はやぶさ)のように飛び降りて、閃光を振り下ろす。竜の動きは速かった。

 しかし男は、悠に反応した。なめらかに竜に体を向け、ナイフを振り上げる。

 キン、と二つの凶器がぶつかり合う。竜の一撃は、重い。男のナイフが、弾かれた。

 攻撃は終わらない。竜は地に足を着くと、体をかがめ、男の足を払った。

 姿勢の崩れた男は、姫から手を離し、またもなめらかに右手で地面を押し上げ、左手でナイフを取って、弧を描くように空を舞った。黒い手袋から覗く白い手首が、頭上を通り過ぎていく。月の下、竜の手足の届かぬ間合いに着地する。


 男から離れた姫の体は、力なく崩れ落ちた。息さえできていなかったのか、喉を押さえて荒く呼吸をする。陽が駆け寄り、顔を覗き込むと、恐怖で蒼白に染まった肌から、次から次へと汗の玉があふれ出していた。


 竜は姫を背にかばい、男に対峙した。

 白い月が目に映る。夜の合図だ。

 ガラスの破片を放り投げ、角と牙を剥く。青い刃を右手に宿し、切っ先を男に向ける。

その身は、怒りの炎で黒く燃えていた。

 男は静かに、ナイフを見つめた。刃が半分、砂になって崩れている。

「素晴らしい……!」

 うっとりつぶやき、恭しく、ナイフを両手で天へ掲げる。そして右腕で空を掬い、貴族のような一礼を捧げた。


「はじめまして。私は神宮団じんぐうだん団長のシグレと申します。また、改めて」


 またなどない。そう言う代わりに、竜は地を蹴った。青い刃が、シグレの腹部を斬り裂く。

 だが、その体は飛沫を上げて弾け、水の粒となり果てた。

「――我が存在は、我がしゅのために」

 竜の耳元で、粒が震える。

 たちまち、甘い香りが強く立ち込めた。無数の水滴は霧と化し、空気に溶けて、消えた。


 震える息を吐いて角と牙をおさめると、竜は、ばっと振り返った。


「姫、怪我は!」

 姫は肩で息をしながら、こわばる指を喉から離した。手のひらに、汗と血が浮かんでいた。竜の一撃をかわすため、シグレはナイフを振り上げた。あの時、刃が喉を掠めたのだろう。

 竜は、ギリッと奥歯を噛んだ。姫の鞄からハンカチを取り出し、左手で、喉の傷に押し当てる。

「いいから。私の傷はなんてことないの。大丈夫だから……」

 姫の濡れた手が、震えながら、竜の右手の甲を包む。竜の右手からは、どんどんと血があふれ、固く握る黒いシャツに赤いにじみが広がっていた。ガラスの破片で、深い傷を負ったのだ。


 姫を心配し、じっと見上げていた陽の視界に、激しい憎悪の眼光が刺さった。ぞくっと黒い毛並みがざわめく。


 陽が目を伏せると、竜は、目を上げた。男が消えた暗がりを、ひたと睨む。


 ――神宮団。許さない。もう二度と、手出しはさせない。必ず、守り抜いてみせる―。


 氷のように、炎のように、竜の目が光った。



 何か、恐ろしいことが始まろうとしている。

 木々の影のざわめきが、悪い予感を募らせる。

 あたりはいつのまにか、光を失いつつあった。

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