翌朝は、土砂降りだった。黒い雲がときどき白く点滅し、低い轟きがかすかなしびれを感じさせる。
電車の遅延、水浸しの道。
姫の母は、「今日は送っていってあげる」と言った。
玄関から出た所で、ちょうど、竜が前を通りかかった。
「おはよう、竜ちゃん。一緒に乗っていって」
竜は、うつむいたままの姫を一瞬だけ目に映すと、「いや、いいです。電車で行きます」と言って、次の言葉を待たず、去って行った。
母は、姫の赤く腫れた目を見つめた。
透明の傘が、重い。一粒一粒が、ずっしりとのしかかってくる。
靴も、靴下も、ズボンの裾も、肩も、腕も、十分と歩いていないのに、びしょ濡れになってしまった。冷たくて、気持ちの悪い感覚ばかりする。
住宅街を抜けて、駅の目の前の大きな横断歩道に出た。一人で歩く十分は、長く、果てしない。二人で歩く十五分は、もっと、あっという間だったのに。
こんな雨なのに、いつもと同じくらいたくさんの人が、赤信号が切り替わるのを待っている。
後ろから、学生らしい、楽しそうな声も聞こえてくる。車が水を掻く音。二十もの傘を打ち付ける雨粒の音。コンクリートと雨の蒸れたにおい。白い飛沫。無数の波紋。信号の朧げな赤。かすかに聞こえる、駅のホームのアナウンス。
からっぽの心は、そこにある全ての感覚をひたすら受け入れた。
信号が青に変わって、横断歩道の白いラインを踏んだ。
水が跳ね返って、隣の誰かの靴を濡らす。
――サッ…………キ……………………。
一瞬、聞こえた。耳が受け取ったのではない。体の中から、静かに、震えるように、それでいて、切迫しているような声が湧いた。
同時に、背後から、幾億もの黒い手が体を掴んで引き裂こうとしているような、おぞましい恐怖を感じた。
咄嗟に、体を左にそらす。
わき腹を、鋭い刃が掠めた。
透明の傘が、宙を飛ぶ。
周りにいた人々が、悲鳴を上げて、下がった。竜と男の周りに、慄然とした人の円ができる。
目の前にいるフードを被った男がのそりと振り向く。口元が、不気味にゆがんでいるのが見えた。
男は手中のナイフをぎらつかせると、竜の腹をめがけて、素早く刃を伸ばした。
即座に、竜は男の手首を掴んだ。
「お前、斎王 竜だろ? まあ違っててもいいんだけどさぁ。鬼人喰えば力になるし、何より、うまいからなぁ」
男が、ねっとりした声でささやく。互いの手に、力が入る。
しかし、竜の手が、雨で滑った。わき腹の傷の上に、深く突き刺さる。
「斎王!」
聞き覚えのある声が二つ、足音とともに聞こえた。
光と、陽だ。
二人は、男の手を片方ずつ、体全部で押さえ込んだ。
刃が引き抜かれ、足元の水たまりに、赤い液体が混ざる。
「ははははは! やっぱりお前が、斎王 竜か! お前の力、俺がもらうぞ!」
男は威勢良く、狂気に満ちた顔で笑う。光と陽を、振り払おうともがきながら。
すぐに、サイレンの音が聞こえてきた。誰かが呼んだのだろう。
水面に、赤い点滅がぼんやり映る。光と陽はますます力を込めて男を押さえ、警察に引き渡した。
救急隊に声をかけられ、急に足が崩れた。
大した傷じゃない。鬼との戦いで、この程度、慣れているはずなのに。
竜の意識は、そこで途絶えた。
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