戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年11月5日(木) 20:00
文字数:1,285

 翌朝は、土砂降りだった。黒い雲がときどき白く点滅し、低い轟きがかすかなしびれを感じさせる。

 電車の遅延、水浸しの道。

 姫の母は、「今日は送っていってあげる」と言った。

 玄関から出た所で、ちょうど、竜が前を通りかかった。

「おはよう、竜ちゃん。一緒に乗っていって」

 竜は、うつむいたままの姫を一瞬だけ目に映すと、「いや、いいです。電車で行きます」と言って、次の言葉を待たず、去って行った。

 母は、姫の赤く腫れた目を見つめた。


 透明の傘が、重い。一粒一粒が、ずっしりとのしかかってくる。

 靴も、靴下も、ズボンの裾も、肩も、腕も、十分と歩いていないのに、びしょ濡れになってしまった。冷たくて、気持ちの悪い感覚ばかりする。

 住宅街を抜けて、駅の目の前の大きな横断歩道に出た。一人で歩く十分は、長く、果てしない。二人で歩く十五分は、もっと、あっという間だったのに。

 こんな雨なのに、いつもと同じくらいたくさんの人が、赤信号が切り替わるのを待っている。

 後ろから、学生らしい、楽しそうな声も聞こえてくる。車が水を掻く音。二十もの傘を打ち付ける雨粒の音。コンクリートと雨の蒸れたにおい。白い飛沫。無数の波紋。信号の朧げな赤。かすかに聞こえる、駅のホームのアナウンス。

 からっぽの心は、そこにある全ての感覚をひたすら受け入れた。

 信号が青に変わって、横断歩道の白いラインを踏んだ。

 水が跳ね返って、隣の誰かの靴を濡らす。


――サッ…………キ……………………。


 一瞬、聞こえた。耳が受け取ったのではない。体の中から、静かに、震えるように、それでいて、切迫しているような声が湧いた。

 同時に、背後から、幾億もの黒い手が体を掴んで引き裂こうとしているような、おぞましい恐怖を感じた。


 咄嗟に、体を左にそらす。


 わき腹を、鋭い刃が掠めた。


 透明の傘が、宙を飛ぶ。


 周りにいた人々が、悲鳴を上げて、下がった。竜と男の周りに、慄然とした人の円ができる。

 目の前にいるフードを被った男がのそりと振り向く。口元が、不気味にゆがんでいるのが見えた。

 男は手中のナイフをぎらつかせると、竜の腹をめがけて、素早く刃を伸ばした。

 即座に、竜は男の手首を掴んだ。

「お前、斎王 竜だろ? まあ違っててもいいんだけどさぁ。鬼人喰えば力になるし、何より、うまいからなぁ」

 男が、ねっとりした声でささやく。互いの手に、力が入る。

 しかし、竜の手が、雨で滑った。わき腹の傷の上に、深く突き刺さる。

「斎王!」

 聞き覚えのある声が二つ、足音とともに聞こえた。

 光と、陽だ。

 二人は、男の手を片方ずつ、体全部で押さえ込んだ。

 刃が引き抜かれ、足元の水たまりに、赤い液体が混ざる。

「ははははは! やっぱりお前が、斎王 竜か! お前の力、俺がもらうぞ!」

 男は威勢良く、狂気に満ちた顔で笑う。光と陽を、振り払おうともがきながら。

 すぐに、サイレンの音が聞こえてきた。誰かが呼んだのだろう。

 水面に、赤い点滅がぼんやり映る。光と陽はますます力を込めて男を押さえ、警察に引き渡した。

 救急隊に声をかけられ、急に足が崩れた。

 大した傷じゃない。鬼との戦いで、この程度、慣れているはずなのに。


 竜の意識は、そこで途絶えた。

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