戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月19日(月) 20:00
文字数:4,688

 仲居が部屋を出て行った後、彼らは出発した。部屋に置いてある説明書を読むと、確かに二十二時が門限との文言があった。そのため、彼らは、早足で湖まで向かった。

 道中、守護符の紫の灯は、一つも浮かんでいなかった。この地域の人々が蒼龍の力を信じていること、そして、蒼龍の力が実際に染み渡っていることの表れだった。

 昼間は清らかに見えた神社も、なんの精気も感じられなかった木の根道も、夜はがらりと装いを変えた。月光も届かぬ暗闇。幾億千もの魂がこちらを見つめているような不気味さが、全身に絡みついてくる。不確かな足場が、さらに体をすくませる。

「姫」

 竜が懐中電灯を左手に持ち替え、右手を伸ばした。姫は、竜の手を、両手で掴んだ。


――離れろ!


 そう言いたい。だが、陽にはできなかった。そんなことを言ったところで、自分には、姫を支えることさえできない。もどかしくて、悔しくて、たまらない。

 二人の背中が、一緒に遠くなっていく。姫が遠くへ―手の届かないところへ行ってしまうかのような錯覚に襲われる。

 姫が、奪われてしまう。でも、何もできない。

 苛々と、心の中の靄が回る。綿あめのようになった暗雲が、体をひどく、べたべたと重くする。

 地を踏みしめた小さな肉球が、夜の闇に溶けて、沈んでしまいそうな気がした。



 湖に着くと、彼らは目を見張った。湖を包み込む木々の影のドームの中で、一筋の青白い月光がまっすぐ射し込み、深い青緑色の水を透き通らせている。白い鳥居は水の蒼を映して、ゆらゆらと揺れているように見えた。黄緑色の光がいくつも漂い、虫の声、フクロウの声、蝙蝠の羽音が無数に聞こえてくる。まるで、生き物たちが平和を求めて集まっているかのような、安寧の楽園がここにあった。

 誰も、声を出せなかった。自分たちが異物であるような気がしてならなかったのである。そして無意識に、この絶対的な平和を司るものからの排除を、心の底から恐れていたのである。


 しかし、その恐れは現実と化す。


 地の底から呻く怒りの音が、空気を、地面を震わせた。竜が、姫の手を握りしめる。

 目の前の湖が盛り上がり、うねる。次第に、体の形がくっきりし、うろこの一枚一枚が、牙が、ひげが、白い目が、浮き出てきた。


 枯れ果てた湖の上に、巨大な水の塊―蒼龍が君臨した。


――フ、ショ…………ナ、……、ク……ゥ…………。


 心臓をしびれさせるほどの低い唸りに混ざり、切れ切れの声が、竜の頭に響き渡る。

 竜は、懐中電灯を地に放った。角と牙を剥き、左手に青い刃を顕現させる。

 雫も、赤い石を輝かせ、角と牙を剥く。

 途端に、蒼龍が大きく口を開け、素早く迫ってきた。水でできた体とはいえ、無数の巨大な牙は、痛みを伴う死を容易に想像させる。

 雫はすかさず、両手を空へ伸ばした。森一帯から、泡粒のような魂が湧き上がる。それらを手中に宿し、彼ら三人を覆うほどの巨大な傘を創り上げ、ぶわりと開いた。瞬時に、勢いよく、蒼龍の牙が突っ込んできた。凄まじい力が迫る。竜は姫の体を背に引き寄せ、腰を低くし、刃を構える。柄を持つ雫の両腕が縮み、体ごと後ろへ押されていく。牙が食い込み、透明な傘の幕が、じわじわと溶けていく。

「……だめです! 耐えきれません……! よけてください!」

 言葉の終わりとほとんど同時に、傘は輝きとなって弾け飛んだ。傘の盾で耐えている間に、四人とも蒼龍の真正面から逃れていたため、転んだ程度で済んだ。しかし即座に、唯一左側によけていた雫に、蒼龍の爪が振り下ろされた。


「雫!」


 陽の声が森にこだまする。からっぽな洞穴で、虚しく残響するように。

 だが、案ずるには及ばない。

 雫は、寸手のところで、ロケットから父母の魂を取り出し、薙刀の形にして、爪を弾いていた。その反動で十メートル先の樹に背中を打ち付けていたが、森の中に入ったが好機、暗闇に身を隠した。

「斎王くん! 蒼龍の体は水でできています。ですが、物理攻撃は可能です! 薙刀の刃で、うろこに傷をつけることができました。斎王くんの刃なら、蒼龍に対抗できるはずです!」

 蒼龍の目は、闇の奥には届かないのだろう。声と足音をたよりに、しばらく空を廻り、雫を探しているようだったが、やがて音がなくなると、竜たち三人に向かって咆哮した。


――フジョウ、ナ、モノ……クウ…………!


 先ほどよりもはっきりと、言葉が脳の奥に響く。

 竜は姫の手を離し、無数の大太刀を出現させた。切っ先が地に突き刺さり、姫を隠す柵となる。

「ここから動くな。すぐに終わる」

 竜は、大木の枝に手をかけると、一気に駆け登った。左手に青い刃を宿し、蒼龍の首に、鋭く投げ飛ばす。蒼龍は身をくねらせてうろこで弾くが、竜の攻撃は終わらない。次から次へと太刀を、大太刀を顕現させ、蒼龍めがけて投げ下ろす。青き豪雨の中、蒼龍の咆哮が夜闇に轟いた。三振りの大太刀が、尾に刺さったのだ。空を舞っていた蒼龍が、刀の重みで地面に引き戻されていく。高い声を上げながら手足で地を掻きもがくが、深く地に突き刺さった切っ先に捕らわれ、動けない。


 好機。


 竜は、これまでにないほど大きく、鋭く輝く大太刀を顕現させた。

 幹を蹴って、跳ぶ。蒼龍の首をめがけ、一直線に。

 切っ先が、首に触れる。うろこに、ひびが入る。


 だが、その時。

 猛烈な風が、噴いた。


 竜の体が、森の奥へ押し飛ばされ、消えた。


 姫は陽を抱え上げ、あたりに目を凝らした。

 今の風は、明らかに変だ。ただの風ではない。


 鬼か、鬼人か――神宮団の仕業か?


「姫さん! 陽くん!」

 警戒し、肩をいからせる二人の前に、雫が戻ってきた。樹に打ち付けた背中が痛むのか、息を切らしている。だが、二人をかばうように氷色の薙刀を構え、蒼龍の反対方向、森の奥を睨んだ。


「誰だ、てめぇら。神宮団の連中か。まーた、蒼龍様を狙ってきたのか? え?」


 耳慣れない横柄な話し言葉、もたついた巻き舌。

 振り向くと、声の主は、空にいた。樹に座っているわけではない。空中に、仁王立ちで浮いている。足元には空気が渦巻いている。顔を見ると、額から一本の角が生えた少年だった。年は、彼らと同じくらいか、少し上だろうか。髪は月光に照らされ、真っ白に輝いていた。

 チッと舌が鳴る。


「てめぇ、神宮団団長の金魚のフンだな? ちょうどいい。ぶっ殺す!」


 少年は雫を睨み、九字格子くじこうしの描かれた紙人形を構えた。

「式神、捕縛! 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」

 少年の指がさっと印を結んだ途端。紙人形が紐のように長く伸び、雫に迫った。雫は薙刀でその紐を絡め取ると、薙刀を球体に変え、紙人形を閉じ込める。

 ――だが。

「くらいやがれ!」

 手ぶらになった雫に、少年の手がかざされる。途端に、爆風が降りかかった。こぼれ風から守るように、姫は陽を抱え、ぎゅっと体を丸めた。皮膚に、無数の鋭い痛みが走る。

「式神、捕縛! 急急如律令!」

 姫の体、背中から倒れこんだ雫の体に、紙の紐が巻き付いた。あまりのきつさに肺が苦しくなり、一瞬、息が止まる。吸い込む隙さえ与えずに、少年は、雫の胸を片足で踏みつけて着地した。


 そして、姫の顔を見て、はっとした。


「うっわ、カワイー! チックショー、神宮団じゃなけりゃなぁ……」

「待ってください! たしかに僕は、かつては神宮団の一員でした。ですが、今は違います! そこにいる彼女たちも、神宮団ではありません! 話を、聞いてください……!」

「うるっせぇ! 神宮団じゃなきゃあ、なんだって蒼龍様を殺そうとしやがる。俺は騙されねぇ!」

 少年の足に体重がかかり、雫の胸を強く押しつぶす。雫は痛みに呻いた。先刻、少年が解き放った風には、無数の見えない刃が仕込まれていた。もろに受けた雫は、体中、切傷だらけだった。雫を縛る白い紙に、赤い模様がにじんでいく。

「神宮団。てめぇらをぶっつぶせば、世界の平和は守られる。とどめを刺させてもらうぜ!」

 少年の半ズボンのベルトから、サバイバルナイフが抜かれた。


 しかし、その刃は輝かなかった。


 奇声とともに、大きな影が、彼らの真上から落ちていた。ひと悶着やっている間に、蒼龍の尾の三本の大太刀は、粉々に壊されてしまっていたのだ。

 白い髪の鬼人は、ニヤリと牙を剥きだした。

「ちょうどいい。蒼龍様にてめぇらを喰ってもらえば、一気に終わるぜ」

 そう言うと彼は、トンと地を蹴って風に乗り、背後の森の暗闇へ消えてしまった。


 残された二人と一匹は、紙人形に捕縛されたまま、身動きが取れない。

 動けば動くほど締まっていく。

 低い咆哮とともに、蒼龍の牙が、口が、迫ってきた。


 彼らは一斉に、目をつむった。



 金木犀の香りが、ふわり、と舞う。



 途端に咆哮は、甲高い悲鳴に変わった。

 姫が目を開けると、目と鼻の先に、肩ほど長く、やわらかいウェーブのかかった後ろ髪があった。薔薇の棘ほどの小さな角が、髪に隠れて二本生えている。自分よりも幼い子どもに見えた。

 蒼龍の目には小さな金色の矢が刺さっていた。蒼龍は蛇のように体を激しくくねらせると、乾いた湖のくぼみにとぐろを巻き、やがて水に戻っていった。

「あ、ありがとう……。あなたは、誰?」

 震える声を掛けると、その子は、振り返った。真ん中に大きくヒビの入った、黒い仮面をつけている。

「メイゲツ……!」

 雫が、緊迫した声を上げた。


 ――神宮団だ。


 姫は咄嗟に体を後ろにのけぞらせた。だが、距離は保てない。

 メイゲツ、と呼ばれた黒仮面は、そっと、姫の腕に触れた。少年の放ったこぼれ風を受けて、姫の左腕にも、小さな傷が無数についていた。

「お怪我はこれだけですか。そちらの、腕の中の方も」

「え? 私は、これだけで……」

「お、俺? あ、うん。なんとも……」

「そうですか」

 メイゲツは、ほっと息をついた。

「手当をしてさしあげたいのですが、この呪符が邪魔ですね。この呪符は、かけた当人にしか解けません。申し訳ありませんが、自分はこれにて撤退させていただきます」

 そう言うと、メイゲツはむせかえるような金木犀の香りに包まれながら、森の暗闇に溶け込んでいった。

「なんだったんだ……? なんで、神宮団が俺たちを助けた? 怪我の心配までして……」

「分かりません。ですが、奴らは意味のないことはしません。メイゲツの行動にも、必ず意味があるはずです。決して、心を許さないでください……!」

 雫の苦しそうな声が、喘ぐように訴えかける。姫はうなずきつつ、顔をしかめた。

「蒼龍はどうにかなったけど、どうしましょう。本当にこれ、あの子の言う通り、かけた本人にしか解けないのかしら」

「これ、陰陽術だ。式神だよ。間違いない。ちょっと俺、やってみようか」

 やわらかい体をねじらせて、姫の腕から脱出した陽が、姫の体に巻き付く紙人形をくわえた。だが、びくともしない。やはり、人間国宝の血が通っていようと、本人でなければどうしようもないのかもしれない。


 途方に暮れて、三人とも、言葉を失った。虫や鳥の高い声が、虚空にさらわれていく。


 一人分の足音が近づいてきた。竜が、戻ってきたのである。飛ばされた先で、どこかに落下したのだろう。額を切って流血し、手の甲で拭っていた。

 だが、姫の姿を見るなり、凍り付いた。

「何があった……!」

 竜が姫を縛る紙人形を力づくで破ろうと格闘している間、雫は、かくがくしかじかと端的に説明した。竜は引っ込めていた牙と角を再び生やして、青い刃の短刀を手に宿すと、紙人形を切ろうとした。しかし、竜の鋭い刃であっても、それを斬ることはできなかった。はさみで鉄パイプを切ろうとしているようなどうしようもなさが、竜の手に残った。

「……あそこか」

 竜は立ち上がった。怒りに燃えながら、もと来た道を、ものすごい速さで駆けていく。

 

 陽も、竜の後ろについていった。

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