暗闇に、扉が浮かび上がった。
いつのまにか一人で立ち尽くしていた姫は、操られるまま、両開きの扉に腕を伸ばした。
紫色のきらめきの海が、真下に広がっていた。武蔵か、江戸か、鎌倉か――あるいはもっと広い範囲の地上を見下ろしているのかもしれない。
さっと、血の気が引いた。
――この世界を、自分の手が、滅ぼしてしまう。
鬼神の思い通りになってはいけない。一番鬼神に近いのは、自分だ。
ただの人間で、鬼人の力もない。体だって、思う通りに動かせない。
だが、力は物理的なものだけではない。心を動かすのも、力だ。
――探し出せ。彼女を止める言葉を。彼女の心を揺らがす、決定的な一撃を。
姫の右腕が、窓の外に伸ばされる。おぞましい力を、中指に感じる。
姫は意を決し、強く食いしばっていた口を、開いた。
「あなた、今でも愛しているのね」
右指でうずいていた力が、ぴたりと止まるのを感じた。
時間が止まったかのように、暗闇の世界に、静寂が広がった。
姫は、息を震わせて、続けた。
「私を傷つけ、竜を傷つけ、世界を壊すのも、全部全部、その人が憎いからなのでしょう。私だったら、好きな人に裏切られたら、消えてしまいたくなる。でも、あなたは消えなかった。万能の力があるのに、復讐のために五〇〇年も生きながらえた。たしかに、それらの行動は全て復讐だわ。でも、どの行動も、その人につながっている。あなたは、その人とつながっていたくて、五〇〇年間生きてきたのね」
指に咲く、赤い蓮の花を見つめて、言い放つ。
「あなたは、ずっと彼を愛している。彼に、愛されたがっている」
静寂が、破裂した。
暗闇がぐにゃぐにゃと揺れ、四方八方から槍の雨のごとく金切り声が降り注ぎ、耳を突き刺す。
姫は、外へ振り落とされないよう、窓枠を握りしめた。鬼神が怒りのあまり、操り糸を切ったのだ。
竜は、ゆがむ地面に足を取られながら、走り出した。
「忌々しい! 愛だと? 私が、あの男を、未だに愛しているだと? 愛されたいと思っているだと? 虫唾が走る! 愛? あの日々を思い出すだけで、吐き気がするのに……! ああ、愚かしい。生意気に、知ったような口でそのような言葉を吐きおって。世界を壊してから喰ってやろうと思ったが、これ以上、不愉快な言葉を並べられるのは我慢ならぬ。今すぐ、ここで喰ってやろう!」
姫の右手中指の赤い蓮の花が、みるみるうちに肥大化し、真っ赤な体の女と化した。
赤い手が、姫の肩を掴む。大きく口を開ける。人の頭一つ飲み込めるほど、大きく――。
姫は顔を白くしながら、立ち向かうように、きっと見据えた。
「姫!」
燕のごとく一筋に、青い閃光が、鬼神の腕を叩き斬った。
悲鳴が轟く。姫の肩から、赤い砂が流れ去る。
竜は右腕で姫の体を引き寄せながら、姫の右手中指から膨張する赤い塊の根元に、勢いよく太刀を振り下ろした。透明の花が咲き、破壊を阻む。耳をえぐるような音が、果てのない闇に残響する。
「竜!」
姫が手を伸ばし、竜の背中にしがみついた。たちまち、心を覆っていた胡桃の殻が割れ、弱く、たよりない中身が露わになってしまったような気持ちになって、竜の胸に、ぎゅっと顔を押し込めた。
竜のにおいが、胸いっぱいに入り込む。
ほっとにじんだ涙が、心の奥で、温かく広がった。
竜は姫をいとおしく抱きしめ、鋭い眼光を、鬼神に向ける。赤い石は、硬い。奴の意識がこちらに向いているからか、はたまたこちらが片腕で攻めているからか。どんなに力を入れても、先ほどのように容易に斬り落ちてはくれない。透明の花びらが、砂のように溶けていくばかりだ。
そして、二人を映す赤い目は、先ほどとは段違いの、計り知れない黒い感情で燃えていた。
「ああ、あ、あぁ……! 憎い、憎い、憎い……! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!」
竜の首が赤い腕に囚われる。これまでにない力で、締め上げられていく。同時に、五臓六腑が握りつぶされる感覚が走り、四肢がちぎれそうになった。唇から、血が流れる。牙で食いしばったところが傷になり、内臓からこみ上げる黒い血と混ざりあう。
だが、決して力はゆるめない。
いくらでもかかってくればいい。相打ちはとうに覚悟している。
姫を守れるなら、それでいい。
どんなに強くとも、万能の力があろうとも、どれほど憎しみが強かろうとも。
絶対に、倒してみせる。絶対に、姫を、守り抜いてみせる。
姫を、幸せにしてみせる――!
声は出ない。だが竜は、まっすぐな眼光で、言った。
鬼神が絶叫する。体から、黒い靄が流れ出る。
「貴様ら……! ああ、あ、腸が、煮えくり返る……! 憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎い……! この憎しみ、嫌悪、あぁ、言葉にできぬ。したくもない。目障りだ! 貴様ら二人とも、今すぐ消えよ! 消し炭にしてくれる!」
赤い女の背中から、枯れ枝のような二本の腕が生えた。
長い爪をぎらりとさせて、姫の首に迫りくる。
「姫、に……! 触るな……!」
ぐっと、左手に力を込める。
竜の体にまとっていた白い煙が、枯れ枝の腕に巻き付き、いっぺんに浄化させた。
そのまま、竜の心臓に入り込む。清い力が体中に染み渡る。
刃の輝きが、膨れ上がる。赤い女の足元が、じわりじわりと焼けていく。
鬼神が呻きながら、赤い瞳を閃かせた。どす黒い殺気が押し寄せる。
だが、竜は揺らがない。意志はますます強くなる。
姫を、幸せにしてみせる。この命を、全てをかけて――!
竜の瞳が、青い輝きを解き放った。
その、直後。キン、と儚い音が鳴り、姫の右手中指から、赤い女の足元が、斬り落ちた。
切り離された赤い体が、脆い砂となっていく。
金切り声が絶叫に、断末魔に変わる。
暗闇がますますゆがみ、揺れる。
だが、姫の指にはまだ、赤い石がこびりついていた。
竜は姫を支えながら、ゆっくり、揺らぐ闇に膝をついた。
太刀を消し、姫の背中からそっと手を離す。
そして――青い短刀を右手に宿し、姫の右手に、左手を重ねた。
「すまない……姫!」
蒼龍刀が、赤い魂を貫いた。
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