姫の家の玄関前に、見覚えのある後ろ姿が立っていた。
「彩?」
少女が、くるっと振り向く。
「ヤッホー、姫ちゃん!」
いつもの無邪気な笑顔で、彩が手を振った。
竜は警戒し、彩を睨んだ。姫の右手を掴んだままに。
「お? いよいよ姫ちゃん、陽くんと別れて、竜くんと……?」
「もう、違うってば。ほら、勘違いされちゃうから、離して」
しかし、竜は離さない。姫を背中に引き寄せる。
「なぜ、ここにいる」
「塾帰りに、ちょっと寄ったの。昨日の電話で、姫ちゃん元気なかったから、心配で……」
「ありがとう、心配してくれて。それにしても、こんな日に塾があったの?」
「そうなんだよ! 普通休みになるよねぇ。親も、授業料もったいないから行けってさぁ」
彩は、ハァとため息をついた。いつもと変わらない調子に見える。だが、竜は警戒し続ける。
姫は、彩を信じながらも、竜の心配な気持ちを汲むことにした。
「ごめんね、彩。実は今、竜が隠形鬼に狙われているの。それで、ちょっと神経質になっていて。せっかく来てくれたんだけど、また連絡するわ」
「えっ、そうだったの! そっか、だからすごい目で睨んできてたのか……。分かった! じゃ、またイツメン四人でグループ電話しよ!」
彩は軽いステップで、竜の体の後ろに隠れる姫の前に跳んでくると、小さく手を振った。
竜の後ろで手を振ろうと、姫の左手が、少しだけ上がった。
ほんの、一瞬の出来事だった。
姫の左手が、彩の右手に、掴まれた。
それだけではない。
姫の左手首には、ナイフが当てられていた。
「あ……や…………?」
まさか。
心臓がばくんと痛んで、頭の中が真っ白になる。視界がゆがむ。
「うそ……うそ、でしょう……あや…………」
少女は、ニヤリと竜に笑った。さも、勝ち誇ったかのように。
「動いたら、深く刺す」
彩の声が、低く響いた。
少し腕を上げれば、奴の首に手が届く。姫の左腕を掴んで、引き剥がすことだってできる。
それなのに、指さえ動かせない。
すでに、姫の左手首にはナイフが軽く刺さっており、血痕がぽたぽたとコンクリートに落ちていた。
「貴様…………!」
激しい憤怒が、竜の体中から流れ出す。もはや、それは殺気だった。
だが、鬼は余裕で笑った。
「この女の手を離して、五歩下がれ。従わなければ、この女の動脈を斬る」
竜は、奥歯をギリッと鳴らした。鬼から目を離さず、ゆっくり、姫から離れる。
鬼は、放心している姫の体をぐいと引き寄せて、首にナイフを押し付けた。
「ははっ。なんだ、やっぱりこの女さえ押さえれば楽勝じゃないか。掟がなんだ。お前を喰べてしまえば、結局同じこと! さあ、手を挙げて、そこに這いつくばれ!」
竜は、言われたとおりにしながら、心の中で、必死に蒼龍を呼んだ。
――来い。来い、来い、来い、来い、来い……! 来てくれ……!
頼む、姫を、守らせてくれ……!
竜が、手を挙げたまま、ぬるいアスファルトに額を近づける。
心臓の底から、太い筒がぶわっと突き上がってくる感覚がした。
天を見上げると、右手から、巨大な白い煙が放出されていた。蒼龍だ。
鬼はさっと青ざめ、「そいつをおさめろ! さもなくば……!」と姫の喉に刃の切っ先を突き立てる。
蒼龍の速さなら、姫の喉に突き刺さる前に、あの鬼を喰い殺すことができよう。憤怒を込めて指を伸ばし、蒼龍に合図を送れば、一瞬だ。
だが。
「いや! 彩を、殺さないで!」
姫の声に、ぐらついた。
彩は、もう死んでいる。
それでも、目の前で、消してしまっていいのか。
彩は、姫の無二の親友だ。だからこそ、きっとこの事態を分かっていながら、受け入れられていないのだ。
たとえ隠形鬼であったとしても、彩の体を消してしまったら、姫の心が壊れてしまう。
葛藤。白い煙が、心を映して揺れる。
鬼は、その心を読んだのか、再び余裕の笑みを浮かべた。
「馬鹿な女……。だが、おかげで助かった。さて、では作戦通り、皮を変えようか」
竜は、はっとした。
この鬼の真の作戦は、姫の体を奪い、自分を殺すことだったのだ。
迷っている暇はない。蒼龍を――!
「東条 姫には手を出すなと言ったはず。これは掟ではない。鉄則だ」
次の瞬間、彩の首は、なくなっていた。
彩の体が、砂になって消えていく。
姫は、力なくその場に崩れ落ちた。
流れていく砂を追いかけて、一生懸命に腕を伸ばし、抱きしめる。
砂が吸い込まれていく先に、小さな子どもが立っていた。
風がなびき、金木犀の香りが流れる。黄土色の髪から、薔薇の棘ほどの小さな角が覗く。
――メイゲツ。
「彩を、かえして…………かえしてよ………………っ! あああああああああぁぁっ!」
姫の悲痛な叫びが、灰色の雲に響く。
竜は、蒼龍を握りしめた。自分の右手が、つぶれてしまうほど、強く。
白い月が、顔を出す。
まだ空は明かりを残している。それでも月は、夜の合図だ。
こめかみの血管が、浮き出る。
ゆっくりと、角が生える。
八重歯が牙に肥大していく。噛みしめた唇から、血が滴る。
右手の蒼龍は、青い太刀に姿を変えていた。
「貴様……メイゲツ! よくも……よくも!」
竜が、一瞬で、メイゲツの間合いに入った。メイゲツは咄嗟に体を後方にそらせる。だが、竜は目にも止まらぬ速さで、メイゲツの体を斜めに斬りつけた。幼い体から血飛沫が舞う。
「許さない……! 貴様が、力を与えなければ……!」
竜が、がむしゃらに斬りかかる。
メイゲツはよろめきながら、半ズボンのベルトから二本のナイフを取り出し、刃を受けた。傷は、すでにふさがっていた。腕に傷を負い、態勢を崩しながらも、止まらない青の閃光を二本のナイフで必死に薙ぎ払う。
わずかに、間ができた。その隙をついて、メイゲツは、背後のコンクリート塀に飛び乗った。
着地とともに、奴は、大人の男に形を変えた。髪の色と顔だちは同じだが、身長も骨格も、男のものだ。手に持っている 小さなナイフは、二丁の拳銃に変わった。『状態変化』の力か。
メイゲツは、銃を二丁構えると、一発ずつ、打ち込んだ。
どちらの弾も蒼龍刀で受け流す。
その隙にメイゲツは、片方の拳銃を姫に向けた。
「貴様……!」
「せっかくの機会だから言っておく。斎王 竜。お前を殺そうとしているのは、自分だ。カゲロウ様は関係ない。カゲロウ様に手を出してみろ。お前の大切なものを、奪ってやる」
「ならば、ここでお前にとどめを刺し、それから、奴を殺す!」
刃から蒼龍を実体化させ、メイゲツを襲う。
だが、メイゲツは即座に蛇に姿を変え、コンクリート塀の裏の家の庭に落ちていった。蒼龍が追いかけ、裏庭の茂みを噛み砕いたが、メイゲツはすでに地中深く潜ってしまっていた。
ならば、もういい。
「姫!」
竜は、刀を捨て、泣き叫ぶ姫に駆け寄った。
固く握りしめた左手の傷口から血があふれて、コンクリートに赤い水玉ができていた。
腕を持ち上げ、コンクリートに這いつくばった体を起こし、抱きしめる。
姫は、力いっぱい竜にしがみついた。
竜の背中に、姫の指が食い込む。手首の血が、べったりと染みつく。
竜の胸の中で、声にならない悲しみを、叫び続ける。
――痛みも苦しみも悲しみも、このまま全部、自分に移ってしまえばいい。
竜は、力いっぱい姫を抱きしめ続けた。
姫の全ての絶望を、自らに刻み付けるように。
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