戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

第一章ー影ー

公開日時: 2020年10月9日(金) 20:00
文字数:2,004

影宮陽かげみやようはぼうっとしていた。


 焼けるような日射しが照りつく七月後半。竹刀と竹刀が交じり合う音と、必死な声が響き渡る小さな武道場。息をするだけで汗が噴き出るこんな場所に、引退した中学三年生の彼らがいるのは、明日、大きな大会に挑む後輩たちに、最後の稽古をつけてやるためである。

 

 それなのに、なぜ、ぼうっとしているのか。


 熱中症ではない。同輩後輩総勢七名が稽古前に放った、ある言葉が原因である。


「彼女と、どうよ? 結局昨日は手、つなげたわけ?」

「てか、明日から夏休みだろ。デートの約束したのかよ?」

「夏休み入ったら自然消滅とか、普通にあるぜ? 忘れられないようにキスの一つでもしてこい!」

「無理だろ! 二か月で手もつないでなかったんだから!」

「絶対今日した方がいいって! したら連絡よろしく!」

「ちょっと先輩たち、やめてくださいよ! 中の下の平々凡々な影宮先輩が、女子の憧れ、武蔵六中むさしろくちゅう一の美少女、東条姫とうじょうひめ先輩と付き合っていること自体、私たち本っ当にいやなんですから!」

「いや、俺たちも別に応援してねぇし。破滅へのカウントダウンしてるだけだし? まじ、なんで中の下のこいつが、東条さんみたいな完璧な人と付き合えたのか、全っ然分かんねぇ」

「高嶺の花だから近づき難かったけど、押しに弱かったんかなぁ。俺にもチャンスあったかなぁ」

「先輩の方がいやです! 下品な人は姫先輩の半径十センチ以内に近づかないでください!」

「ひど」

「頭良くて、三年間学級委員してて、優しくて、きれいで……。はぁ。ほんと、姫先輩みたいになれたら人生勝ち組だよねぇ」

「私、姫先輩は絶対、天野あまの先輩と付き合うんだと思ってた!」

「天野先輩、めっちゃ素敵だよね! もうほんと、直視できない! 姫先輩と一緒に学級委員してるとことか見ると、美男美女でお似合いで……。あぁ、あの二人に付き合ってほしかった!」

「分かる。俺たちも天野なら納得だったよな」

「俺は、斎王さいおうと付き合ってんのかなって思ってたけどね」

「斎王ってお前と同じクラスの? あいつ、超やばいよな」

「あぁ、あの、体育祭でめっちゃ目立ってた先輩ですか?」

「あの先輩、体育祭の時はすっごくかっこいいと思ったけど、学校ですれ違うと、目つき悪いし、体おっきいし、だるそうだしで、超怖いんですよねぇ」

「だよな。俺達もすげぇ怖いもん。でもなんか知らんけど、東条さんって、あいつとすっごい仲よくてさ。ちょくちょくうちのクラス来て、斎王と話してくんだよね」

「幼馴染なんじゃないっけ? 朝も一緒に来てるの見るし」

「まじか。一匹狼の幼馴染ほっとけないとか……。まじ、東条さんの優しさエンドレスだわ」

「その優しさにつけ込んだ悪い男がこいつです」


 肩をぽんと叩かれ、陽は、軽く足元がふらついた。これだけ同輩後輩が話し込んでいるのに、この時すでに、陽はぼうっとしていたのである。

 

 原因は、「キス」という単語である。この単語が出た瞬間、陽は、計画と妄想の世界に没入してしまっていた。

 

 東条 姫と付き合って、今日でちょうど二か月。ようやく昨日、ありったけの勇気を振り絞って、五分間だけ手をつなぐことができた。心臓が大きく跳ねて、目も耳も頭も、機能を忘れてしまった。全神経が手に集中し、手のひらが汗まみれになった。次第に、剣道をした後の蒸れたにおいのするだらだらの手で、細くて白くてきれいな手を触っていることが、とんでもなく恐ろしく思えてきた。それで、すぐに手を引っ込めてしまったのである。


 剣道をすると、体中が納豆のにおいになる。そんなにおいをプンプンさせて隣を歩きたくないので、部活に呼ばれた日は、先に帰ってもらっていた。だが、昨日と今日の二日間は、「明日で学校終わっちゃって、夏祭りまでしばらく会えなくなっちゃうし、よければ、一緒に帰りたいわ。教室で勉強して待ってるから」と、いじらしく言われてしまい、うなずかざるを得なかったのである。


 しかし、よくよく考えてみると、終業式の日の帰り際にキスをするということは、非常にロマンティックである。最高にドキドキする。しかも、恥ずかしくても二週間は顔を合わせない。いいこと尽くしである。


 何より、キスしたい。

 強く膨れた思いは、堅い決意となった。


 そうとなったら、納豆人間にならないよう、今日は剣道をしないことにした。顧問には、「熱中症っぽくて、ふらふらします」と適当なことを言って、稽古をぼんやり眺めながら、姫とキスをするシチュエーションを何パターンも妄想していた。

「影宮、だめそうか。今日はお前、もう帰るか」

「あ、はい。そうします」

 顧問の心配をチャンスと取って即答すると、陽はさっさと着替えた。

 そもそも自分が頑張らずとも、旧レギュラー陣が尽力して後輩たちを鍛えてくれるのである。

 とにかく今、陽の心には、「姫」と「キス」しかなかった。

「じゃ、失礼します!」

「進展したら報告しろよな!」

 同輩後輩はけらけら笑って、納豆のにおいのこぶしを振った。

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