休日の朝は好きだ。
黒いカーテンで締め切った部屋に、ピアノの音が、微かに流れ込んでくる。息をひそめて、じっと、一つ一つの音を拾う。彼女の紡ぐ高い音に触れるたび、体中に染み付いた汚いものが、全部、泡粒になって消えていくような気がする。
彼女の細い指が奏でる音は、日を受けてそよ風に舞う花びらのように、繊細で、やさしくて、綺麗だった。
まるで、彼女の心そのもののようだった。
最後の音の響きが消えてしまうと、しんとしたまどろみの中に、意識がゆっくり、溶けていった。
コン、コン、と音がして、ハッと目を覚ます。背中をピッと糸でつり上げられたように跳ね起きて、カーテンに飛びつく。窓ごと開けると、午後の淡い日光が、いっぺんに入り込んできた。
白い世界の中に、彼女の――姫の、やさしい微笑みが見えた。
「おはよう、竜。ごめんね、寝てた?」
「いや」と答えると、姫はクスリと笑った。
「寝癖」
姫が、自分の髪の右上あたりを指さした。
姫の部屋の窓は、近い。腕を伸ばせば、触れられるほどに。だから、記憶の始まりからほんの少し前までは、何も言わず、指で直してくれていた。
三月の後半から、「もう高校生なんだから」と、少し距離があくようになって、それきり、寝癖の場所は分からない。
適当に髪を引っ張っていると、姫はまたクスリと笑った。
「参考書を買いに行こうと思っているんだけど、よかったら、竜も行かない?」
「行く」とうなずいて、さっと薄いパーカーを羽織る。
姫はすでに仕度ができていた。肩と二の腕に大きなレースがかかった白いブラウス、深緑色のスカート、同じような色のスカーフには、オパール色の丸いブローチ
が留められている。
並んで歩くと、髪を束ねた赤いリボンと、襟の後ろで結んだスカーフが、視界の端でふわふわ泳いだ。
「寒くないか」
そう聞いてしまったが、今日は雲一つない快晴だ。四月二週目、十四時をまわっていたこともあり、むしろ日差しが暖かかった。昨夜、「鬼退治」に出た時は、少しばかり冷えていたのだが。
姫は、「大丈夫。ありがとう」と微笑んだ。
通学路と反対の道を行くと、商店街がある。最近できたばかりの新しい本屋に入って、高一の参考書を眺める。姫は気になったものを静かに指で引き出して、折り目がつかないよう、やさしく開く。
三冊選び終わると、「竜は、いいの?」と首を傾げた。
よくはない。成績優秀な姫に合わせて、市で一番学力の高い進学校を受験した。なんとか合格はしたが、この学力では、努力しないとついていけない。大学受験や、もっともっとその先も、努力しないと、きっとついていけない。
だが、高校生になったばかりで、授業も
まだ日が浅く、何が苦手か分からなかった。
「じゃあ、苦手なところがみつかったら、また今度、一緒に来ましょう」
小さな参考書コーナーには他に人がいないのに、姫はずっと、律義に声をひそめていた。
本屋を出たところで、姫は、「今、見ごろかしら」とつぶやいた。
商店街の裏手には小川が流れている。その両岸の桜並木は、このあたりではなかなかの花見スポットだった。
行ってみると、何十本もの桜が立ち並び、見通す限り遠くの方まで、春の色が続いていた。十五時半を過ぎたころだったからか、さほど人はいなかった。やわらかな風で揺れる枝の音が、静けさの中で心地よく流れた。
「わあ……。道まで全部桜色ね。すごく、きれい」
歩きながら姫は、苔の生す年老いた幹に若い花束が咲いているのを見つけて、「かわいい」と目を細めた。透明な頬に、花模様の日差しが映っていた。空から降ったひとひらが、白いブラウスの肩を撫でた。
両岸をつなぐ橋に足を踏み入れると、姫は、「わあ……」と息を漏らして、欄干に手をかけた。両岸を染める桜色。雲一つない淡い青空。日光に煌めく小川のせせらぎ。遠くにそびえて並ぶビル。小川の水で冷えた風が、花びらの雨をちらちら降らせる。
やわらかな風に髪とリボンをなびかせたまま、姫は、じっと見入っていた。身軽な方がいいと思って、左腕にかかる鞄と本の入った紙袋を引き取ろうとすると、姫は、「大丈夫。ありがとう」と微笑み、再び見入った。
少し、静かな時間が流れた。姫の唇から、はあ、とうっとりしたため息が流れた。
その時。
風が、ぶわっと桜を吹き上げた。ざわっという音とともに、桜色の輝きが視界いっぱいに舞い上がる。
それは、本当に美しい瞬間だった。
「竜!」
姫の栗色の髪が、赤いリボンが、踊るようにまわった。あどけない笑顔が、振り向いた。
思わず、息を止めた。
ほんの―ほんの、一瞬だけ。
小学二年生のころまで見せていたような無邪気な面影が、ほんの一瞬、その笑顔に映った気がした。
桜の輝きでいっぱいだったはずの視界には、もう、色など、映ってはいなかった。
「見た? すごく、きれいだったわね」
しっとりと微笑む姫に、「ああ」と返す。
止めていた息が、漏れてしまった。
息を止めても、時間は決して、止まってくれない。
ゆるやかな風に髪を任せ、次の舞を待つ背姿は、どんな絵よりも綺麗だった。
スマホの、カシャ、という音に気が付いて、姫が画面をのぞき込んできた。
「やっぱり竜って、写真、上手ね。私も、撮ってみようかしら」
手首にかけていた鞄から白いスマホを取り出して、桜並木を写真におさめる。
そのまますっと、あいつに送る。すぐに返事が返ってきたのか、クス、と幸せそうな笑みをこぼした。
――俺は、どうしたら、姫を幸せにできるのだろう。
姫が奏でるピアノの音も。ゆっくり叩くノックの音も。なんてことない「ありがとう」も。
ぴんと伸びた背筋も。丁寧な所作も。見えない人をも思いやる清らかさも。
暖かな海のように澄んだ声音も。感嘆して漏らす吐息も。
小さな歩幅も。歩くだけで浮かぶ髪も。本や桜なんかより、ずっとずっと甘い香りも。
世界を「きれい」と感じる心も。一番きれいな瞬間を、俺に教えるためだけに捨ててしまうやさしさも。
俺の髪に触れてくれていた細い指も。「また今度」の約束も。
幼いころの面影も。ずっと見てきた微笑みも。俺には向けられることのない、その表情も。
姫の全てが、俺を幸せで満たすから。
俺は、なんとかして、この幸せを返していきたい。もらった以上の幸せを、全部、全部、姫にあげたい。
だから――。
右手中指の赤い蕾を、ぐっと、手のひらの中に閉じ込める。
その時。もう一度、強い風が吹いた。
白いブラウスのレースが、羽のように広がる。姫の細い肩が、きゅっとすくんだ。
夕方の小川の風は、ずいぶん冷たくなっていた。
手のひらを開くと、右手中指の赤い石に、頭上の桜が映っていた。
姫の肩を、そっと、黒いパーカーで包んだ。
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