泣き声で、目が覚めた。
姫と、知っている顔が三つ、心配そうに覗き込んでいる。無意識に、曇ったガラスを拭くように、竜は、姫の涙を指で拭った。
それでも、姫の涙は、ぽろぽろと止まらない。
「ごめんね。私が、あんなこと言ったから……。朝、一緒に行っていればよかった。お母さんの車で送ってもらっていたら、こんなことには……」
なんのことだっけ、とぼんやり考えていると、右わき腹がなんとなく痛いような気がした。
薬のにおい、冷たくて硬い真っ白なシーツ、見慣れない天井。
だんだん、朦朧とした意識がはっきりしてきた。
変な男に刺されて、病院に運ばれたのだ。
三人の少年たち――陽、雫、光から話を聞くと、目が覚めるまでのいきさつは、こうだった。
陽と光が通う私立武川高等学校は、影宮神社の最寄りにある武蔵駅から、三つ先の駅の前に位置している。今日は豪雨のために、いつもより二本早い電車に乗ることにした。そこでちょうど、竜がフードを被った男に襲われているところに出くわしたのだ。
男を捕らえ、警察に引き渡した後、二人はそのまま、意識が朦朧としている竜に付き添った。
傷が深く、出血も多かったために、竜は手術室に運ばれた。
光が、図書館で本を読むため、朝早く登校していた雫に連絡を取ると、雫は急いで姫に伝えた。青ざめ、取り乱す姫を連れ、雫はうまく学校を抜け出し、竜のところへ駆けつけた。どうやってうまく抜けたかは、バニラのにおいで察しがついた。
涙の止まらない姫にもう一度手を伸ばそうとした時、陽が、姫の隣にしゃがんで、細い肩を抱きしめた。
行き場のなくなった手をシーツに隠し、竜は目をつむった。
廊下から、母の声と、担任の声が聞こえてくる。幸い、やりとりは長引きそうだ。
「お前たちも聞いただろう。あの男は、俺を狙っていた。俺の力、と言っていた」
光は、強くうなずいた。
「ありゃ、隠形鬼だな」
――隠形鬼。
四鬼の一体で、人間や鬼人の死体に乗り移り、その人間や鬼人として生きていく力を持つ鬼である。その力は他の四鬼にも分け与えられていた。
隠形鬼のやっかいな点は、乗り移った人間や鬼人の性格を引き継ぎ、周りに気付かれないまま生活できることだ。その上、昼夜も、守護符の内外も関係なく、動くことができてしまう。さらに、人や鬼人に乗り移っても、肉体や戦闘能力は鬼の時と同等に強化され、鬼人に乗り移った場合には、その力を使うこともできてしまう。
隠形鬼とは、確実に狙った獲物を仕留める、最恐の暗殺鬼なのである。
「でも、なんで斎王を狙ってるんだ?」
「分かりません。可能性として考えられるのは、金鬼や鬼神を倒し、その魂を吸い取った斎王くんを殺すことで、自らの力を強めようとしている、ということです。鬼は、鬼や鬼人の魂を喰べて力をつけます。その魂が共喰いをして多くの魂を吸収していればしているほど、強く、貴重なものとなります。斎王くんは、力を欲する鬼にとって、最高級の獲物なのではないでしょうか」
陽は、「なるほど」と顔をしかめた。姫が、自分の体をぎゅっと抱きしめて、小さくなった。
「畜生! 目的はなんなんだ。力を手に入れて、何をしようってんだ。また、世界を滅ぼそうってか!」
光の目が、怒りに燃える。雫の瞳も、氷のような冷たさを宿した。
「俺には蒼龍が宿っている。あれは鬼の力じゃないから、日中でも少しは動けるんだろう。今回も蒼龍が殺気を感じて、俺に危険を伝えた。警察も事情を説明すれば、何か動くはずだ。俺の方は、良い」
心配なのは――。
うつむく姫を、見つめる。
「……姫。ほとぼりが冷めるまで、一緒にいてくれないか」
姫は、戸惑いの色を浮かべた。陽が強く、姫の肩を引き寄せる。
「待て! 隠形鬼がお前を狙っているんだったら、かえって姫といるのは危険じゃないか? 俺とか、雫、光さんといた方が、お前といることを悟られない。むしろ、一緒にいない方が、姫にとってはいいんじゃないか!」
竜は、陽を睨んだ。だが、その瞳に、いつもの凄みはない。どことなく悲しく、縋り付くような、弱弱しさが灯る。
「お前たちも、隠形鬼に乗り移られる可能性がある。この中で確実に隠形鬼に喰われないのは、狙われている俺だ」
「……たしかに、斎王くんのおっしゃるとおりかもしれません。隠形鬼は、体を乗り換えることも可能です。そして、乗り移った人間や鬼人として、周りに違和感を与えることなく、自然に生活します。僕たち三人が束になっても、互いが隠形鬼に体を取られたことは、きっと分かりません。誰か一人にほころびが生まれたら、それで終わりです」
「かえって危険だな。それに、隠形鬼の体を乗っ取る力って、陰陽術で封印しても、制御されねぇみたいなんだよな。普通、制御されりゃ、乗っ取った体から本体がぽろっと出てきそうじゃん? あん時、封印札を貼ってみたんだけどよ、なーんか、そうならなかったんだよな。なんで、言いにくいんですが―特に、坊ちゃんは危険っす。封印術は大分上達しましたが、隠形鬼の力自体に、封印術が通じねぇ可能性がありますから」
姫の近くにいたら、陽の身が危うい。陽が体を乗っ取られたら、姫の身が危うい。そういうことだ。
陽は、下唇を噛んだ。苦みが喉を通って、ひりひりと痛む。
掠れた声で、陽は静かに、「分かった」と言った。そう言うしかなかった。
姫の肩から、陽の手が滑り落ちた。
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