姫の家が白を基調としたモダンな造りであるのに対し、隣の家は暗く、古めかしく、守護符がよく似合う家であった。
黄土色に変色したチャイムを押すと、ブーッという音がして、小さなおばあさんがゆっくり出迎えてくれた。しわだらけの目が、姫を映してとろんととろけた。
「おんや、姫ちゃんかえ。朝ごはん食べに来たのかえ」
「おはようございます。朝早くにごめんなさい。今日は、竜に用事があって」
おばあさんは打って変わった大きな声で、「ほれ! 竜ちゃん!」と階段の上に向かって叫んだ。
「連絡してあるので、大丈夫だと思います」
「そ。入んなさいな。可愛い猫ちゃん、味噌汁飲むかえ?」
姫は丁重に断ると、するすると家の中におじゃまして、急な階段を上った。一歩一歩がギシギシ軋む。
二階にたどり着くと、姫は一番奥の扉をノックした。返事も待たず、勢いよく開ける。
中は、紺色のカーテンで締め切られ、ここだけ夜かと思うような暗闇であった。もわりとした男臭さが陽の敏感になった鼻を刺激する。ほとんど物がなく、きちんと整理されているのが奇妙に思えた。隅に置かれた黒いベッドが、異様に膨れ上がっていた。
姫は躊躇なく、掛布団をひっぺがした。
「竜、起きて。大事な話があるの」
掛布団の中から現れたのは、黒い短髪の男だった。丸くうずくまっているが、体格がよく、普通の中学三年生よりはるかに大人びて見える。
ゆっくり、瞼が開く。まぶしそうな顔が、わずかに上がる。
鋭い目が、黒猫に留まった。
陽は、「グァッ」と、つぶれた声を出した。
「姫! こいつ、こいつだよ! 角とか牙とかないけど、こいつだ!」
姫は、ぎゅっと下唇を噛んだ。そして、ぼんやりしている竜に、胸に抱いていた黒猫を突き出した。
「竜。彼は、影宮 陽。私の恋人よ。昨日、ある鬼人に殺されかけて、こんな姿になってしまったの。陽を襲ったのは青い刀を持った鬼人。そして、竜の力は『|無限刀《むげんとう》』。青い刃の刀を、いくつでも手元に顕現させることができる力よね。……竜ね? 陽を襲ったのは」
竜は、眉間の寄った険しい顔でしばらく陽を凝視したが、「知らん」と言って、背を向けた。
「違うと言うなら、昨日着ていた服を見せて」
「洗濯機」
姫は早足で、するすると風呂場に向かうと、洗濯機の中に手を突っ込んだ。陽を斬った時の血飛沫が付いているはずだと思ったのである。
だが、陽の記憶に基づいて黒いシャツを確認するも、血の痕跡は見つからなかった。
部屋に戻ると、竜はベッドの上にあぐらをかいて、壁に寄りかかっていた。
「あったか」
「なかった」
「満足か」
黙り込んだ姫の代わりに、陽が反論した。
「シャツなんてどっかで捨てたんじゃないのか! 襲われた俺が言うんだ! 絶対、絶対、お前が俺を襲った!」
竜の鋭い目が、陽を射抜く。本物の殺気に、陽はぞくりと凍り付いた。
「うるさい、クソ猫。鬼人には色々な力がある。その鬼人は、姿を変える力で俺に化けた奴かもしれない。俺にやられたという暗示をかける奴だったのかもしれない。その可能性を全て消し去って、俺だと言える証拠があるのか。そもそも、鬼人が人間を襲えば、法令違反で警察に捕まる。そんな危険を犯してまでお前を殺す理由が、俺にあると言い切れるのか?」
「そんな……! お前と会ったのも、話したのも、昨日がはじめてだったのに、そんなこと、俺が知るわけ……」
竜は、姫に目を移した。殺気が消え、やわらかく、温かい眼差しに変わったのが、肌に触れた空気ではっきり分かった。
「姫。俺は、姫が悲しむようなことはしない」
まっすぐな言葉だった。険しく竜を見つめていた姫の瞳から、ぽたり、ぽたりと、白露がこぼれる。
竜は静かに、けれどもとても素早く、扉の前で立ち尽くす姫に近づいて、姫の体を包み込んだ。
「は? おま、何してんの? 離せ! 離れろ!」と狂ったように叫ぶ陽を押しつぶしながら、竜はぎゅっと力を込める。陽の声はモゴモゴとした音と化した。
姫はぽろぽろと涙をこぼしながら、「本当に、竜じゃないのね?」と聞いた。
竜が、「ああ」とささやくと、姫は、竜の胸に頬を寄せた。
「疑ってごめんね。怖かったの。陽が猫になっちゃって、竜まで警察に捕まっちゃったら、どうしようって……。よかった、竜じゃなくて。よかった……」
わずかに震えていた姫の体から、力が抜けていく。
陽の話を聞いてから、姫はずっと元気がなかった。姫は、陽のことだけでなく、竜のことも心配し、心に抱えていたのだ。陽はそれに気が付いて、姫の優しさに感服した。
しながら――もやもやした、黒いものが心に広がったのを感じた。
姫の涙が落ち着くと、竜はようやく体を離した。陽は深く息を吸い込んで、ぐったり力を失った。
残った涙を指で拭い、姫は改めて、真面目な顔で竜を見つめた。
「竜を信じるわ。だから、お願い。協力して欲しいの。陽が人間の姿に戻れるように。それに、竜じゃないなら、誰か分からない人が陽のことを狙ってる。私、陽がいなくなるなんて、絶対にいやなの。お願い。助けて」
姫が悲しむようなことはしない。そう断言した竜が、縋り付くような姫の眼差しを、振り切れるわけがない。
竜は返事の代わりに、苦い顔でため息をついた。
それから姫は、持参したノートを開き、「今後の作戦を立てましょう」と言った。犯人については判然としなかったが、通報は保留になった。警察に届け出たところで、竜が疑われるだけだろう。最優先事項は、陽をもとに戻す方法を探すことである。有力な手がかりは二つに絞られた。
一、影宮神社の書庫にある書物から調べる。
二、入院中の祖父に聞く。
二つ目が最も手っ取り早いのだが、できない事情があるのだという。
「あのじいさん、親族の俺しか面会できないようになってんだよ。病院に俺の顔が登録されててさ。人間の俺の顔じゃないと通してもらえないんだ」
「だいぶ厳重なのね。人間国宝だものね」
「あー……」
陽の迷いが、濁った声になる。
「……えっと、本当はあんま……っていうか、絶対言っちゃいけないんだけど……」
竜の冷たい一瞥が刺さる。
「実は、じいちゃんが入院してるのは、病気じゃなくて……襲われたんだよ、黒い仮面の奴らに」
黒い仮面の奴らが、何を目的としているのかは分からない。しかし、人間が唯一、鬼に太刀打ちできるすべ、陰陽道を極めた最後の人間が襲われたのだ。知能の高い鬼によるテロの可能性がある。黒い仮面の奴らや模倣犯の出現を恐れて、国はこの情報を絶対に漏らさないようにしながら、人間国宝を守るため、厳重な警戒態勢を取っているというわけだった。
「そういう大事なことは早く言え。そういうことなら、お前を襲ったのはその黒い仮面の奴らだろう。跡取りであるお前を消して、陰陽道を完全に滅ぼそうとしているんだろう」
竜はふっと眉間をゆるめて、そのままベッドに転がった。
「二十分、寝る」
その言葉を最後に、竜の寝息が部屋に響いた。
「竜、寝ていないみたいだし、限界なのかも。私たちだけで、神社に行って調べてみましょう」
鬼も鬼人も、力は夜しか使えない。黒い仮面の脅威も、昼間ならばさほど警戒しなくて良いだろう。
二人は、竜の家を後にした。時刻はまだ、午前八時であった。
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