午前四時。謎の鬼人に襲われ、死に物狂いでめちゃくちゃな印を切り、黒猫になってしまった陽は、姫に助けを求め、一切合切を話して、寝た。混乱していて何が何だか分からなかったし、もしかしたら夢かもしれない、と思ったのである。
だが、目を覚ました時、そこは姫の家で、自分の手足は黒い毛むくじゃらであった。
「まじか……」
落胆して、大きなため息をつく。
「おはよう」
困った顔で微笑む姫が、毛むくじゃらな陽の顔を覗き込んだ。朝六時を過ぎたところであったが、姫は早くも身支度を整えていた。レースが施された生成色のノースリーブから白い腕が覗く。紺色のデニムパンツが、足腰の細さを映えさせる。
はじめて見る彼女の私服に、陽の心は一気に昂ぶり、硬直した。
「これからのことなんだけど、ちょっと整理してみたの」
姫は淡々と、ノートを開いた。陽が話した内容が、きれいな字で並んでいる。
見開きの右ページの隅に、赤い字で三つ、これからのことがまとめられていた。
一、しばらくの間、陽が家にいられるようにすること。
二、犯人をつきとめること。
三、陰陽道の資料を探して、陽をもとに戻す方法をみつけること。
「あれから、考えてくれてたのか? 俺、寝ちゃったのに……」
「だって、眠れなくて。こんなことになるなんて……」
姫は下唇をきゅっと噛み、うつむいた。
かくまってくれるだけでよかったのに、こんなことまでしてくれるなんて。
自分のために尽力してくれる姫のけなげさに、陽は、体の芯からときめいた。命を狙われ、猫になってしまったが、最高に幸せな気分であった。
二人はまず、一つ目から着手した。下に降りると、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐった。
「お母さん、おはよう」
リビングを開けると、スーツを着た、涼しげな目元の美人がコーヒーを飲んでいた。彼女は、姫に似た微笑みで、「おはよう」と返すと、「あら、その猫ちゃんどうしたの?」と、姫の腕に抱かれる黒猫を指差し、コーヒーをすすった。
「猫……なんだけど、彼が陽なの。影宮 陽くん」
「はじめまして! ひ、姫さんとお付き合いさせてもらってます! 影宮 陽です!」
恋人の家族にはじめて挨拶するのに、こんな、お腹を見せたみっともない格好だなんて……。
陽は、顔から火が出そうになった。
姫の母は、「ん?」と首を傾げる。
「姫の学校って猫ちゃんも通えるのかぁ……。ていうか、そっか……てっきり人間だとばかり思ってたけど、そっか、猫ちゃんが彼氏だったとは……。あ、ごめんなさい。はじめまして。いつも姫がお世話になってます。コーヒー飲めます?」
母の早合点に感心しつつ、姫は、昨日あったことを簡単に説明した。その上で、しばらく陽を家に住まわせてほしい、と伝える。
「なるほどね。うちなら、近くに竜ちゃんもいるし、安心だもんね。私は構わないわよ。パパが海外に単身赴任中で、男手足りてなかったし、ちょうどよかったわ。ま、猫ちゃんだけど。あ、部屋はどうする? パパの部屋でも使う? それとも、姫の部屋がいいかしら?」
姫の母はニヤリと笑い、コーヒーカップを唇に寄せた。
どきり。緊張した陽の体が、ますます硬くなる。
姫は、「ドアの開け閉めもあるし、私の部屋がいいかなって」と淡白に答える。
「いいけど、不純行為は禁止よ? 猫ちゃんだからチュッチュしたくなっちゃうかもしれないけど、キスは高校生からだからね。中学生は手をつなぐまで。中学生は中学生にしかできない、純愛を楽しんでちょうだい」
「分かってるってば……」
姫は少し赤くなって、もぞもぞと答えた。陽を抱く手に、力がこもる。
母はコーヒーカップをシンクに置くと、ゆったり、黒い鞄を肩にかけた。
「じゃ、今日は研修の後に飲み会があるから、二十一時くらいになるかな。竜ちゃんとこで食べてもいいし、作ってもいいし、任せる」
「ありがとう。行ってらっしゃい」
「……あ、竜ちゃんといえば、つい三十分前だったかしら。ゴミ捨てに行ったら会ったわよ。鬼退治の帰りだったみたい。ポテトサラダごちそうさまでしたって。ほんと、好きよね。なんだったらまだ残ってるから持っていってあげて」
母は、「ごゆっくり」と陽に笑顔を向け、仕事に出かけて行った。
玄関の扉がパタリと閉まると、陽は、ふうと息を吐いて、溶けるようにやわらかい体に戻った。
「さすが、姫のお母さんは美人だなぁ。笑ったところ、そっくりだった。今、姫、髪長めだけど、お母さんみたいなショートも似合うだろうな」
陽の暢気な言葉に苦笑して、姫は簡単に朝食を準備した。ポテトサラダをパンで挟んだ、一口サイズのサンドイッチ。姫の母はポテトサラダに玉ねぎを入れないので、猫の体でも食べることができる。
陽は一口食べて、今まで食べたポテトサラダで一番うまい、と思った。
「毎日毎食でもいける! 最っ高に幸せ!」
「そうはいっても、一刻も早く人間に戻らなくちゃ。夏祭り、行きたいでしょう?」
陽はサンドイッチを口に含んだまま、激しく六回、首を縦に振った。
食べ終わったお皿に手を合わせると、姫はスマホをさっと操作し、『斎王 竜』に電話をかけた。
呼び出し一秒で、低く掠れた声が聞こえた。
「もしもし、竜。朝早くに申し訳ないけれど、今からそっちに行くわ」
相手が、『ん』とだけ言うと、姫はさっと電話を切った。
「竜って、さっきも話に出てた……?」
「そう。陽とは違うクラスだから、見たことないかもしれないわね」
姫はスマホをぎゅっと握りしめ、泣きそうな顔をして、言った。
「おそらく……陽を襲ったのは、竜よ」
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