――温かい。
なつかしい温もりに包まれている。触れたところから伝わる熱、心臓の音、やさしい甘さと男の子らしい苦さが混ざったにおい、体を支える腕の強さ。
何もかもに安心する。
そっと目を開けると、首筋が目に入った。汗が一粒、襟の中へ落ちていった。
静かな虫の声が、遠くで聞こえる。蛙の声が、近くで聞こえる。
顔を上げると、見慣れた人と目があった。
見慣れ過ぎているくらいなのに、息が、止まった。心臓が、破裂しそうになった。
頭の中がぐるぐるして、姫は、両手で顔を覆い、叫んだ。
「ちょっ……やだ! どうして、これ……お姫様抱っこ? やだ! 降ろして! 自分で歩くわ!」
「落ち着け。こんな裾の長い着物で、歩けないだろう。それに、靴も履いていない」
両手の指先から目だけ出して覗くと、黒い着物の裾が、金魚の尾のように、風に揺れてひらひらしていた。裾が長すぎて見えないが、たしかに自分は足袋一つだった。
状況は理解した。だが、落ち着かない。
心臓がばくばくと暴れ続けている。触れ合うところが、熱くてたまらない。
再び両手で、燃える顔を覆った。
「近い……」
姫が、小さな息とともに、心の声を漏らした。
竜は――困った。なんとも言えず、眉間に深いしわが寄る。
竜とて、この近さを気にしていないわけではない。自分の汗がこぼれてしまうのではないかと気が気でないし、体の傷は一応血が止まっているが、何かのはずみで傷口が開いて姫を汚してしまうのではないかとひやひやしている。それでも、こんな状態の姫に、歩かせたくはなかった。
姫が何かを思い出したように、はっとした。両手の先から、目だけ覗かせる。
「私の、服は……?」
「探してない。そのまま出てきた」
「私、探してくる。靴だってあるかもしれないし……。そういえば、陽とか、雫くん、光さんは? 一緒だったの?」
「さあ。そのうち来るだろう」
「一緒に来てくれたのね。それならやっぱり、私、戻るわ。降ろして」
竜は黙って、踵を返した。
街灯も、紫の灯もない。民家も、店もない。田畑が広がる、真っ暗な道のはるか先に、茂みに隠れた米粒のような家がぽつんとたたずんでいる。おそらく、あそこからきたのだろう。月明りもとぼしい道を、もうずいぶん、歩いてきたらしい。
「降ろさない。戻るなら、このまま行く」
混乱して記憶が飛んでいたが、竜は今、戦いを終えたところだった。そもそもこんな、どこだか分からないところに来るのは、簡単ではなかっただろう。そんな疲労困憊の竜に、あそこまで戻れなどと鬼のようなわがままが言えようか。
口をつぐむと、竜は再び帰路をたどった。
「駅まで、あと十分ぐらいだろう。ロッカーに、着替えもスマホもある。着いたら連絡を取れ」
しばらく、沈黙が続いた。
温かさに身を委ねていると、姫は少しずつ、落ち着いてきた。目だけ覗かせ、竜の右頬をちらりと見た。鬼神との戦いの中で、自分の手が傷つけてしまった傷だった。深くはないが、血がにじんだ跡があった。右手にも、傷を負わせてしまったことを思い出した。
「……竜、ごめんなさい。私、わがままばかり言って。大変な思いで来てくれたのに、お礼も言っていなかった。来てくれて、助けてくれて、本当にありがとう」
竜は、首だけで「ウン」とうなずいた。
「あと、本当にごめんなさい。私、竜を傷つけてしまった。傷、痛くない?」
竜はまた、首だけで「ウン」とうなずいた。
「鬼神は、消えた、のよね……」
姫は、顔から手を離し、指を見つめた。赤い石は、もうない。
蒼龍刀で貫いた石は、砂になって、竜の石の中に吸い込まれていった。今まで戦った鬼たちと同じように。
あれだけ強い力を手に入れたはずなのに、竜の石の蕾は、ほんの少し膨らみはしたが、花は開かなかった。花さえ開けば、それを確証にできたかもしれない。だが、他に確かめるすべはない。
当初、姫の指の赤い石は、鬼神が体を乗っ取った時にしか現れていなかった。祭後に出現し続けていたのは、姫を罪の意識に苛ませ、竜を苦しめるためだったのだろう。自由自在に石の出現を操作できるとしたら、もしかすると、まだ姫の中に潜んでいるのかもしれない。
だが。
「もし、鬼神が消えていなかったら、また倒すだけだ。今はとにかく、姫と帰れれば、それでいい」
姫は、大きな瞳を見開いた。きゅっとした胸を、そっと、両手で隠した。
後ろから、二人を呼ぶ声がした。
竜の肩から後ろを覗くと、黒い猫が走ってくるのが見えた。
竜は聞こえていないのか、足を止めない。心なしか、むしろ早足になった気がした。
「竜! 陽が来たわ。止まって、降ろして。勘違いさせたくない」
「姉弟なんだから、別に構わないだろう」
「姉弟……みたいなものかもしれないけど」
姫が左手でぐいっと、竜の胸を押した。
「幼馴染なんだから、気にするわ」
竜は、足を止めた。
じっと見つめると、姫は下唇を甘く噛んで、目をそらした。
「幼馴染……。そうか」
竜は姫を離すことなく、再び歩き始めた。
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