雫は、祭りの三日前に突然、書庫に現れた。散歩をしていたら、たまたま見つけたので、覗いてみたのだと言った。
しゃべる猫、必死に何かを探す姫、警戒し敵意を剥きだす竜。
雫は事情も聴かず、「困っていることがあるのなら、何か、僕にできることはないでしょうか」と微笑んだ。
唐突の訪問、上品じみた話し方、どことなく似た微笑み。
もしかして、神宮団のシグレか。そうでなくても、奴らの一味であるのではないか。
陽と竜は疑い、口を開かない。
沈黙を破ったのは、姫だった。
「ごめんなさい、雫くん。せっかくの申し出なんだけど、三人でなんとかなるわ」
雫は、「分かりました」とあっさり引き下がった。
「では、お暇する前に……。厚かましいのですが、一つお願いをさせてください。こちらの本、かなり古いものですよね。僕、古文を読むのがとても好きで……。少しでいいので、読ませていただけませんか」
姫が、「ええ」とうなずくと、雫は自分の足元に積んであった本を一冊、手に取った。しばらく空気に溶け込み、静かに本を見つめているかに見えたが、すう、と深く息を吸い込むと、「興味深い……。陰陽道の巫女の日記ですね。自分が行った呪術やそれに関わる話が物語形式で……」などとぶつぶつつぶやいた。
「雫くん、読めるの?」
「はい。くずし字も習っていましたから」
「くずし字?」
「これです」
雫が開いて見せたのは、蛇のようなぐにゃぐにゃの羅列であった。
竜と陽の警戒の眼差しをよそに、姫は、「やっぱり」と身を乗り出した。
「やっぱり、手伝ってもらっていいかしら。私たち、その字が読めなくって……」
「だめだ」
頑固な父親の様相で、竜は断固拒絶する。
「でもこのままじゃ、全然前に進めないわ。じゃあせめて、辞書とか、読解のための資料とか教材とか、貸してもらえないかしら」
「斎王くんと影宮くんがそれでもいいとおっしゃるなら、僕は構いませんよ」
竜と陽が、一層鋭く睨んだ。
「なぜ転校生が違うクラスの俺たちを知っている。クソ猫のことも、俺たちは一言も言っていない」
もの怖じもせず、雫は静かに微笑みかける。
「姫さんとは、同じクラスの学級委員として、大変お世話になっています。その関係で時々、休み時間に二人で打ち合わせをすることがあるのですが、その際、斎王くんがよく近くを通るので、名札を拝見して覚えさせていただきました。影宮くんは、人間国宝でいらっしゃる影宮 聡一郎さんのお孫さんとのことで、存じ上げておりました。僕も鬼人なので、守護符開発に献身してくださった聡一郎さんに、感謝と尊敬の念を抱いておりましたから。廊下で一度すれ違った時にお聞きした声と一緒だったことと、斎王くんと姫さんがいらっしゃるのに住んでいらっしゃるはずの影宮くんの姿がなかったことから、影宮くんはそちらの猫さんなのではないかと推察いたしました」
陽は、「なるほど」と納得した。
「浅はかな猫は騙せても、俺は騙せない」
「いい加減にして、竜」
厳しい母親の様相で、姫は冷声叱咤する。
「読むのは私だもの。私が判断するわ。雫くん、明日だけ、お願いしたいの。くずし字の読み方を教えてください」
竜、姫、陽。
表情の全く違う三人を順に見つめ、雫は、「分かりました」とうなずいた。
翌日、雫は参考資料や辞書を持ってやって来た。くずし字の読み方を丁寧に教わる姫の左横で、陽は「へえ」「ほお」と分かったようにつぶやいていた。竜は終始、勉強する三人を前に、絶対的な警戒心を崩さず、岩のように座っていた。
くずし字の読み方は大方理解できたが、辞書がないと正確に読み取ることは難しい。
結局次の日、すなわち今日も、雫に来てもらうことになった。雫は事情も聞かず、日中、静かに解読を手伝ってくれた。そして夕方は、解散したにもかかわらず、陽のために、お好み焼きとやきそば、かき氷を調達してきてくれたのだった。陽の疑心は薄まって、逆立っていた尾の毛が、なだらかに戻っていた。
食事をつまみながら、陽は雫に尋ねられ、姫と付き合うことになったいきさつを語った。姫の浴衣姿を見て気持ちが昂ぶっていたので、ノリノリである。
「給食前に手洗ってたらさ、隣で洗ってる子の手がすっごくきれいでさ。どんな子だろうって顔見たら、超可愛いわけ! 俺ってそんな目立つ方じゃないし、特技もそんなにないし、皆にいっつも中の下っていじられてるからさ。有名な人のこと、自分とは身分違いだって思ってシャットアウトしてたんだけど、誰っ? ってなって。そんで、一学年四〇〇人のこの学校で、もう二度と出会えなかったらどうしよう! って思って。あとはもう勢いで、一目惚れしました! 付き合ってください! って、言っちゃったんだよ……!」
「奇跡みたいな出会いですね……!」
「だろ! オッケーもらってさ、手もちょーっとだけどつないだし、キスもしたし。幸せな人生、だったんだけどなぁ……」
陽の口は止まらない。自分が猫になったのは竜のせいであるということや、その時の状況について、詳らかに説明する。
「三角関係というものでしょうか?」
「いや。それがあの二人、双子なんだよ。二卵性らしいけど、似てないよなぁ」
「全く気が付きませんでした。ですが……いえ、斎王くんを肯定する訳ではないのですが、お姉様を恋人と引き剥がすために、罪をも犯す覚悟でいらっしゃるとは、よほど深い愛がおありなのですね。お二人にも、何か物語があるのでしょうか」
たしかに、と陽は思った。自分は一人っ子だから、兄弟の関係についてはよく分からない。だが、竜の深い想いには、何かそれなりの理由があるにおいがする。
そうはいっても、知りたい気持ちはあまりなかった。姉弟だと分かっていても、あの二人を見ていると、やっぱりもやもやしてしまうのだ。
こんなことまで口にしてしまっても、不思議と陽に後悔はなかった。聞き手のおかげだな、と思う。そもそも、普段はこんなに自分のことを話す方ではない。それなのにこんなに話せるのは、話したくなるのは、雫の懐の深さのおかげだろう。
「俺ばっかりたくさん話しちゃって悪かったな。雫、話しやすくてさ」
「いいえ。僕は、物語を読むことも、人の話を聞くことも、とても好きなのです。言葉が紡ぐ物語は、とても素晴らしいものです。心を動かし、感情をあふれさせる。そんな魔法を持っていますから」
雫は、愛おしそうに胸に手を当てた。
神宮団の実態が分からない以上、疑いと警戒はするべきだろう。
それでも、陽は雫の言葉に、なんとも説明しがたい美しさを感じた。こんな風に、何かを愛おしく思える人と、あの残虐な神宮団のシグレとが、同一人物なはずがない。信じたい気持ちが強く、大きくなった。
陽はすっかり心を許して、どれほど自分が姫を好きか、どれほど今日を楽しみにしていたか、どれほど竜を憎く思っているかを涙ながらに語った。
そうして、今に至る。
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